北 海 道 観 光 案 内
続き2 道 東 観 光

(42)  阿寒国立公園は、昭和9年に指定され 面積 87,500ヘクタール                        
阿寒火山群、屈斜路火山群、温泉がいたる所に、湧き出る。屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖、(カルデラ・火山陥没湖)


(43) 美 幌 峠 屈斜路湖カルデラの外輪の一部、標高 525m 美幌(ペーホローペツ)水の多い川の意味 

☆ 峠付近の草原にはハクサンチドリ、ミヤマオダマキ、などの高山植物見られる。

☆ 和琴半島・アイヌの人達は(オワコット)と呼んでいた、大正10年、大町桂月が ここを訪ねた時に「和琴」と名付けた。 
最北の発生地和琴の南方系「ミンミンゼミ」昭和26年天然記念物に指定され大切に保護されている。

☆ 屈斜路湖(クッチャロ)湖の水が流出る川口の意味                            
 周囲 57km、深度 125m、水面標高 121m、カルデラ湖としては日本最大。釧路川水口〜弟子屈温泉を通り、釧路の原野を流れ130km太平洋にそそぐ。

☆ 砂 湯(オタユ)砂から湧きでる温泉・・・砂を掘るとお湯が湧き出る。         

☆ 屈斜路湖に湖面の氷が隆起して、3〜4kmも延びる「御神(おみ)渡り」が出来る。御神渡りは凍結した湖面が寒暖の差で朱収縮と膨張を繰り返し、湖氷の厚さ約20cmの氷、亀裂し氷を押し上げて出来る。(屈斜路湖の神様が渡ったあとに出来るといわれている) 屈斜路湖の氷が割れると青く澄んで水晶の様に見える。

☆ 屈斜路湖は、酸性が強いので魚がすめません。一度ウグイを放流したが結果はだめでした。


(44) 川湯温泉(セセクペツ)熱い川 《泉質は硫黄泉》                            
草津温泉と同じ阿寒国立公園の拠点となる温泉で、街の中に数条の温泉川が流れ硫気がただよっている。
 泉質は強い酸性泉、石鹸がきかないが湯冷めがしない。 神経痛、皮膚病、ヤケドに効き目がある。

☆ 第48代横綱大鵬・出身地。相撲記念館がある。


(45) 硫 黄 山(アトサヌプリ)裸の山 標高 512m(活火山) 帽子山(マクワンチサップ)標高 574m六月中句、
山麓にはエゾイソツツジの白い花が咲き乱れる。

☆ 明治19年、釧路集治監は 跡左登硫黄山 に外役所設け硫黄採掘工事に 囚人を使った。 硫黄の需用が延びるにつれて、囚人の就労は多いときは500人に及んだ。  硫黄の粉、有毒ガスで半年の間に 145名が罹病 42名が死亡、看守、囚人ともガス中毒、そのころから殺傷事件が続発した。 明治21年、大井上輝前は早速視察し現実に驚き、残りの契約期間を破棄して就労を中止させた。 (殺傷事件)硫黄の粉、有毒ガスで目が視えなくなると生き埋めにしたそうです。


(46) 摩 周 湖(カムイトウ)神の湖、中島(カムイシュウ)老婆の意味                     
周囲 24km、深さ 210m、水面標高 351m、以前は透明度が 41mありましたが、今では 37mに落ちている。湖に虹鱒など放し、土砂の流失などで透明度が落ちているのではと、原因は解らない様です。 春から夏にかけて霧が発生しやすく、湖を見る事は難しい。               

☆ 摩 周 岳(カムイヌプリ)神の山、標高855m 第一展望台・標高550m**第三展望台・標高650m

☆ 中ノ島(カムイシュ)神様のような老婆・・周囲160m、高さ25m


(47) 弟 子 屈(テシュカガ)川底が岩盤で出来ているの意味                          
明治18年、石川県・本山七衛門が温泉開発めざして、一家を連れて温泉を始め たのが、和人 定住の最初と言われている。
街の真ん中に釧路川が流れている、時期になると、白鳥が羽を休める。

☆ 弟子屈900草原牧場(930ヘクタール) 弟子屈900牧場、展望台に上にがると、900牧場だけでなく
標茶〜中標津の牧場までつながって地平線が円く見える。 夏季には約1800頭の乳牛が放牧される。                 

☆ 弟子屈の温泉は湯量が豊富で、一般家庭でも温泉を引き入れている。摩周駅の暖房は温泉を利用している。               


(48) 阿寒横断道路 (阿寒国立公園・87、500ヘクタ-ル)                      
弟子屈〜阿寒まで42km、以前、砂利路のときは曲り角が多く47曲がりもあった、路巾は狭く車の交差は困難な所でした。 熊が道路に出て来てはねられた事故は時々あった。 バスにはねられた熊の所有権は、運転手のものか、会社のものかという、もめ事もあった。 熊の、前爪、キバ1本、7千円〜1万円もする。 キモは媚薬として珍重されている、胃の痛いとき、キモ、ひとなめで治る。

この辺の山は熊の棲みか。 冬ごもりの間(冬眠でなく冬ごもり)こぶし位の子供を2・3頭生み(小さく生んで大きく育てる)これまでは1・2頭しか生まなかったが環境の変化で三っ子が珍しくない、満2歳になっても母熊に付いて行動している。 出産は2年か3年おきに1度。 雌親は、秋に栄養を取っておかないと子供に乳を吸われ衰弱、死に至る子供もそのまま死んでしまう、雌親は秋には、むさぼる様に 食いあさり食べ物が無いと気が荒くなり里に降り作物を荒らし、家畜、人も襲う。 熊は丘陵地帯に、棲んでいたのですが 北海道の開拓が 熊の棲みかを、山の上に追い上げ、年々減っている。          

☆ 横断道路の森林                    
エゾ松、トド松は、樹齢200〜300年のものが多い、ナラ、カエデ、タモ、セン、カツラなど30種以上、数千ヘクタ-ルの原始林となっている。

☆ サルオガセ(寄生木(ヤドリギ)の種類)       
松の枝に引っ掛かっている藻のような寄生植物、木の養分を吸い取って木を枯らす風に吹かれて隣の木に移る。 
木の大敵、サルオガセ、霧の多い所に寄生する。


(49) 双 岳 台・標高700m                               
雄阿寒岳と雌阿寒岳が並んで見えるので双岳台と名付けられる。

★雄阿寒岳、標高 1371m ★雌阿寒岳、標高 1503m ★阿寒富士、標高 1476m

☆双湖台、上の湖(ペンケトウ) 周囲 5km、深さ39m、水面標高 510m、        
下の湖(パンケトウ) 周囲12km、深さ48m、水面標高 460m、川でつながり阿寒湖に流れている。

☆ 滝 見 橋                                                 
右の滝は、太郎湖から、左の滝は阿寒湖から、二つの流れが橋の下で合流して阿寒川の上流をつくっています。
春、夏、秋と景観は最高です。


(50) 阿 寒 湖(アカランベツ)ウグイのホリ、産卵穴                              
周囲25km、深さ37m、水面標高420m(雄阿寒岳の噴火によって形成された火山陥没湖)

☆ 阿寒湖畔温泉                                              
明治の中頃までは、名も知られない小さなアイヌコタンで、静かな温泉でした。徳川幕府が倒れて、明治新政府に移った。 政府や開拓使の役人が考えたのは緒藩への土地割り当てである。「仰付(おおせつけ)」と進んで開拓を希望する「出願」の二つがあった。 明治39年、加賀百万石の前田正名男爵が、阿寒湖一帯を管理すると出願、払下げを受ける。 道路の開発をはじめ、阿寒に、愛着をもって開発に力を注そぐ。 2代目園主前田正次が太平洋戦争で亡くなり、前田光子夫人が3代目園主となり相続管理、阿寒の女帝と呼ばれていたが光子夫人も亡くなり、子供がいなかった為、前田一族が、株式会社前田一歩園として管理をしている。        

☆(ボッケ)摺鉢状の凹地から硫気を噴出して灰泥を沸き立たせる泥火山。 

☆ 阿寒湖、チュウルイ島(波の立つ沼)に マリモが生息している。

☆ 昭和27年、国の特別天然記念物に指定。 直径5〜6cmの大きさになるのに150年〜200年もかかる。 マリモの生育は藻がからみあって、沼の底でころがり丸くなる。  又、小石が芯になり藻がからみマリモになるとの説がある。

☆ 阿寒湖には、姫鱒、虹鱒、鯉・ アメリカザリガニは湖に放したのがふえている、ワカサギ料理が有名。     
 《阿寒湖温泉の泉質は単純泉》


(51) オンネトー(古い沼)周囲4km 水面標高650m 深さ9m                      
 五色沼とも呼ばれている。 湖水は、季節や時間により、色を変える。エゾサンショウウオが生息している。

★ 雌阿寒岳 標高1503m(活火山) ★阿寒富士 標高1476m                         
 メアカンキンバイ、メアカンフスマは、この山ではじめて発見された高山植物。                  
 雌阿寒岳噴火(昭和31年、山林耕地被害)(昭和63年1月、小噴火)

☆ この辺の森林に、赤エゾ松が生え、木質が良く建築には、最高の木材、楽器にも使われ、ピアノの鍵盤バイオリンの台 ね色が大変良いので北海道の赤エゾ松で、作られています。 大年輪の大木が、少なくなっている。 赤エゾ松の下に松茸が! 2mもの大蕗が! この地区は、山菜の宝庫。 熊が出没するご用心、以前ジャリ道の頃は熊が道を横切った。


                   
(52) 螺 湾(ラワン)坂のある所の意味                            
 (ラワンブキ)秋田の大蕗と同じ種類、高さ1m〜2mにもなる、茎が直径10cmなる、足寄の名物。 
足寄蕗組合が螺湾の蕗を管理している、立ち入り禁止になっている。 東京、大阪などのホテル、旅館などに送っている。

(53) 足 寄(エソロベツからきている)川沿いからくだる川の意味                        
 面積1500平方km 人口15、000人、人口密度日本で一番ひくい所です。歌手、松山千春の、生まれ故郷。          
  17ページ (54)に続く


《 上士幌 糠平 然別 廻り 》


(1)  足 寄 湖(人造湖)            
 周囲8km、850万立方メ−トルの水を足寄発電所に水を送っている。

☆ 芽登第二発電所・発電能力は2万8千キロワット。

☆ 道の駅足寄湖(エーデルケーゼ館)チーズ工場を兼ねている。 ここのカマンベールチーズが美味しい。


(2) 上士幌町                                                
主な産業は、林業、農業、大雪山から吹き下ろす風が強く、土地も悪い畑作中心から酪農への転換し、
国営の大規模草地開発事業、上士幌町が経営しております。

☆ ナイタイ高原牧場、牛約3,000頭、約17,000ヘクタールの公共の牧場としては日本一。牧場内の道路は14q〃約990mの展望台からの十勝平野一望できる。


(3) 糠 平(ノカピラ)人の姿をした岩の意味                                 
黒石平・・糠平発電所。 昭和28年、着手し、糠平、芽登第一、芽登第二、足寄、四つの発電所、
(人造湖)糠平湖、糠平ダムはじめ五つのダムを作り、昭和31年総工費220億の巨費を投じ完成。

☆ 屏風岩・・この辺、糠平大函と呼ばれている。

☆ 糠平ダム  高さ76m・・堤、長さ293m・・巨大なダム、発電所、水路隧道を建設するのに鉄材20万トン、セメント20万トンを使用し、延べ30万人の労務者。ダム建設の陰に犠牲になった32柱の慰霊碑がダムサイドに建てられています。

☆ 糠平湖 東大雪の山中にある人造湖                                     
周囲33km糠平湖を形造り 1億8千立方メ−トルの水をたたえている。                    
雨竜の朱鞠内三笠の桂沢湖に次いで北海道では3番目の大きな人造湖です。 <![endif]>

☆ 糠平温泉・・泉質はクロ−ルナトリュム、単純泉


(4) 幌 鹿 峠・・標高1080m この道路は昭和37年着工〜昭和42年に完成する。


(5) 然別湖・・周囲16km、深さ200m、水面標高800m                         
大雪山国立公園で唯一の自然湖。 展望山(くちびる山)ともいう、展望山が湖面に写ると、くちびるの様に見える。 湖に棲息する天然記念物指定、オシロコマ(ミヤベイワナ)が生息。 オシロコマ料理はここならでは味わえない。周辺の原生林にはナキウサギが生息。


(6) 駒 止 湖・周囲1km                                          
噴火口に水がたまったもので、エゾサンシヨウウオ、オシロコマ、等が棲息しております。                     
昔は、然別湖に来るのに馬に乗っての旅。 ここに来て思わず馬を引き止めたことから駒止湖と名付けられたそうです。


(7) ヌプカウシヌプリ(原野にいる山)                                   
 東ヌプカウシヌプリ・標高1252m 西ヌプカウシヌプリ・標高1256m


(8)  扇ヶ原展望台・標高740m                                        
眼下には32万ヘクタ-ルの原野。 この中に帯広市を中心に町と村が点在している。


(9) 神田日勝記念館(鹿追町)                                        
十勝の農民画家 神田日勝 32才の若さで亡くなっている。 日常を独特な画法で描いた油彩を展示している。
画板を買うお金がなくベニヤ板に描いた自画像、農耕馬の絵、感嘆するものがある。


(53)から続く

(54)本 別(ポンペツ)小さい川・・・明治29年に開墾される。


(55) 勇 足〔アイヌ語の(エサンピタラ)さし出た河原を・漢字で勇足(イサムアシ)と書いた〕 
(いさむあし)の字をあてはめたものが“ゆうたり”と発音が変わった。


(56) 高 島  九州高島炭鉱をひらいた、高島嘉衛門。高島農場があったのが地名の起こり。


(57)  池 田 町                                                
鳥取藩池田侯が牧場を開いたのが始まり。華族の開拓は、進まなかった。その後東京から来た、
久島重義が池田農場の開墾と解放に努力した。

☆ 池田ワイン城(ブドウ酒研究所)昭和39年開設                               
 池田のワインは、丸谷池田町長は、この地方のヤマブドウに目を付けて、町営でワインの醸造を始めた。 
ブタベスト国際ワイン品評会で(昭和39年、銅賞)(昭和40年、銀賞)(43年、金賞)(51年、赤ワイン、シエリ−酒で大名誉賞)金メダルを独占。 国際的価値ある商品になった。 酸味の強いワインが人気! このワインは、量産しないので手に入らない。


(58) 十 勝 川                                                
石狩川、天塩川に次ぐ十勝川、大雪山連峰から支流を集めて200km太平洋に注いでいる。 開拓者はこの川を上って十勝開拓に入る。

☆  千代田堰堤                                              
9月鮭が俎上、堰堤の流れを登ろうと飛び跳ねる、堰堤の下に鮭が溜る、それを引き網で獲り人工孵化をしている。 河川改良工事のため自然孵化の出来る所が無くなった。 自然孵化の場合、産卵の場所えらび(子砂利・きれいな湧水・流の穏やかな所)子孫を残すため雄は良い雌、雌は立派な雄と、つがいになって、雌が子砂利を除けてホリ(産卵穴)を掘る、雄はその周りをよそ者が入らない様護る、ホリに放卵、放精して受卵させるその上に砂利をかぶせる、魚体はボロボロ、雄、雌死ぬまで巣を護るホリのそばで一生を終る。 ボロボロになった(プランクトン)親を食べ大きくなって、春、海に下がり4〜5年北洋の海を回遊し、又、生れた川の匂いをかぎながら俎上する。 今この様な自然が少なくなった。 100匹孵化して川に戻るのは2〜3匹です。 人工孵化でも戻るのは、2・3%人工孵化の場合稚魚が、ひ弱でほかの魚に食べられてしまう。 自然孵化の稚魚は環境に強いので逃げるのは早いが、卵のとき食べられてしまう。 自然孵化の事業もしている様です。      


(59) 十勝川温泉                                               
世界にドイツと十勝川温泉にしかないと言われる植物性のモール温泉。                     
 この辺の地層は泥炭層が多い、地下水が泥炭層を通ると茶褐色になる日本では少ない温泉、単純泉で植物性(モール)温泉ゆっくり入っていると温まる。 美人の湯として有名。 公園に、世界一の花時計がある。 ギネスブックに登録されている。


(60) 十勝平野(トカプチ)乾燥せる所                                      
明治16年、十勝の開拓先駆者(晩成社)伊豆の静岡松崎町の 依田勉三、率いる 28人が資本金5万円"サラリーマン農法"を取入、オベリベリ(帯広)を中心に開拓に入る。勉三の夢は、15年間に1万ヘクタールを開墾、しかし苛酷な作業、作物が バッタに食い荒らされ冷害、霜害、等、又、オコリ病(マラリヤ)とたたかいながらの開墾。10年後開墾出来たのは30ヘクタール、開拓に落後者が一人二人と、晩成社は解散 勉三の妻は「ここは人間の住む所ではない」と実家に帰った。 勉三は病気(中風)になったが、一部の人たちと、73才まで十勝開拓に精魂尽くしたようです。 現在の帯広市西2条9丁目、帯広駅前付近に住居があった。 「農聖」、「拓聖」といわれて道内ただ一人の聖人ができている。   

☆ 明治28年政府は、十勝は開拓が遅れている。 北海道集治監十勝分監の囚人労働を機動力に開き始める。

☆  依田勉三の秘話                                              晩成社を率いて入植した 依田勉三は「十勝開拓の祖」として語る上で欠かせないが、晩成社の事業が失敗に終ったのは、勉三の離婚が一因となっているのでは、という新事実がこのほど、帯広郷土史家、 棚瀬善一さんによって明らかにされた。 依田リクは明治12年、いとこの勉三と結婚、明治16年、帯広に移住した際、同行した。 リクは病弱で時々松崎の実家に帰り静養を繰り返し明治27年離婚した。

リクの実兄、依田善六は伊豆地方で有数の資産家。晩成社の大きな資金源だったがこの離婚を怒り、晩成社への資金援助を中止、ただでさえ厳しい開拓事業に大きな打撃を受けた、晩成社の没落に拍車をかけたという。 棚瀬善一さんの〃新説〃 <![endif]>

☆ 農作物は、豆菜、野菜、寒冷地作物、ジャガイモ、小麦、ビート(甜菜)等、たくさんの作物が取れる。 十勝長いもが名物。

☆  八千代育成牧場                                             
 東京ドームの210倍もある976ヘクタ−ルの広さの草原に約1390頭の牛、250頭の羊、近くには
宿泊施設の帯広市畜産研修センターと畜産物加工研修センターの施設。 
その他に十勝種畜牧場などがある。

☆ 帯広(オペレペレケプ)川尻がいくつも裂けている所、これが(オベリベリ)になまって帯広に変化した。 
十勝の中心地、人口17万人の都市          


(61) 芽 室 町(メムオロ)湧き水の出る所                                   
 かって依田勉三の事務を担当し、大正14年、芽室村第3次村長となった、大村壬作は「依田勉三は二宮尊徳の報徳主義を奉じられ、すべての行動も教えの 至誠、勤労、分度、推譲、4本柱を身をもって実行され、報徳訓を暗誦し精神のかてとしておられました」と、当時をふりかえって話をしている。 当時、芽室はまだ小作制度が多かった。 終戦後、マッカサーが小作制度を廃止、農地解放、小作人は開懇に励んだ。 今では農業の町として大発展している。

☆ 昭和62年、芽室町から横綱大乃国誕生。

☆ ゲートボウルの発祥地。  

☆12月31日、零時すぎると裸おみこしが有名、全国の人が裸おみこしを、かつぎに集まって来る。


(62) 御 影 町                                                
明治36年に鉄道が開設当時は アイヌ語で(サネンコロ)山の鼻と言う意味。                   
山の鼻と言う地名はおかしいので!日高山脈は、みかげ石を産する所から御影に変わったそうです。 
国道沿いにみかげ石の石屋さんがあった。 〃今はない〃


(63) 清 水(ペケレペツ)明るく澄んだ川、意訳して清水にした。 明治30年石川県人26戸入植。

☆ 主な産業は農業、酪農、二次産業として製糖工場、ハム、ソ−セ−ジ工場など農産工業の町と発展。

☆ からまつ(落葉樹)                                            
十勝地方は、市松模様に からまつが植えられている。 開拓が進につれて森林が無くなった。 (十勝はアイヌ語の意味で乾いたる所の意味)風が吹くと表土が飛ばさる、それで防風林に落葉松が植えられた。 落葉松は寒さに強く成長が早い。  カラマツ30年、杉50年、トドマツ60年、エゾマツ80年、ヒバ百年、他の木にくらべると だんとつに早い。 〃カラマツは北海道の風物詩〃

☆ 北海道の建築材の建築材は、杉、ひのき、けやき、松、などが使われている。北海道の建築材は、主に、エゾマツ、木の素性が良く、日本間の木目が見える所では柱、敷居、鴨居などに使われる。 エゾマツの中で赤・黒蝦夷松は建築材では高級材です。 “柾目は、最高”トドマツは干割れ、ねじれがあるので屋根裏、壁の裏になる、見えない所に使う。カラマツは7ページ(25)で述べた様に大工さんが、造作しずらいので、カラマツ集成材を使う。 階段、柱、壁材見栄えの良い仕上がりになる。 楡、栓、桂、楢、など雑木も色々な用途によって建築に使われるが!これらの雑木は、年々減って高級材になっている。 主に、家具材に使われている。        


(64) 日勝展望台・・標高740m                                       
日勝道路は昭和34年、開発道路に指定され、当時19億円を投じ昭和40年に完成。 日勝峠・標高1023m、十勝と日高の国境。


(65) 千 栄 部落、以前は(チロロ)化物のいる所、と呼んでいた。                       
 チロロ川と沙流川本流の合流点である所から昔は、十勝アイヌと日高アイヌの交流場所であったと云われている。


(66)  日 高 町                                                
昔、右左府村 アイヌ語で(ウサップ)国名をとって日高村と変わり日高町として発展している。 ここの産業は木材、面積5万3千ヘクタ-ルの森林から木材が産出されている。


(67)  日高竜門                                                
右手の絶壁、「屏風岩」以前は絶壁の所が道路でした。 最大の難所でした。 
これは難所として知られる中国の竜門になぞられて付けられたそうです。竜門橋からの展望は紅葉のときは〃最高〃           


(68) 二 風 谷                                                
イギリス人マンロ−医学博士、日本歴史に関心を持ち昭和5年、この地に住みアイヌの人の生活様式、信仰、伝承など調査し、記録、写真、映画などの記録を残す。 まじないによって病気を治そうとする迷信を改めさせたり、生活文化の向上に 一生を捧げた方です。 太平洋戦争の時、日本軍にスパイ容疑で捕えられ取り調べを受け大変だった様です。

☆  土足で入り込んだ和人                                           
元参議院、萓野茂さんは、『アイヌモシリ(北海道)へドカドカと土足で上がり込んできて、勝手に所有権を主張して山の木を切りまくり、大儲けした木材会社。 アイヌの人達が政治的に確立していなかったとはいえ、アイヌの国土を売ったり貸したりした覚えはない。 和人による沙流川のサケ漁禁止など一方的な押し付けだ。 わずか百年余りで言葉や文化まで奪われていいはずがない』と言っている。         萓野茂さんは、アイヌ民具約八百点・二風谷アイヌ文化資料館の館長です。在亡くなり息子さんがあとをついでいます。

☆ 昔、二風谷はクルミの木がたくさん生えていた。 この木は太平洋戦争の時、鉄砲の台尻にクルミの木を使った。


(69) ハヨピラ公園                                              
アイヌの文化神 オキクルミが宇宙人の円盤に乗ってここに降りアイヌに文化を広めたとの説があり、信ずる人もいる。 
公園は閉鎖されている。


(70) 平取町(ピラウトル)両崖の意味・・崖と崖の間                              
明治3年、新潟 吉田半兵衛・滋賀 牧野熊次郎が沙流河畔に開墾したのが始まり。


(71)  義経神社                                              
 江戸時代寛政(1800)年、幕使近藤重蔵の寄進による義経の木像一体を神体として祀ってあります。 義経がこの地に落ちのびアイヌにアワ、ヒエの作り方、色々な文化を広めたとの説があるが、本当は近藤重蔵がアイヌに教えている。 近藤重蔵は名もない幕臣、義経の名を借りて伝えたと云われている。 義経の木像は近藤重蔵に似て作られている!


《 富 良 野 コース 》


(1) 新 得(シリエトク)山の突き出た所、なまって新得

☆ 国道38号線・・明治26年囚人の手によって 大津との間につくられたものです。 <![endif]>

☆ トノサマバッタ                                              明治13年、北海道に異常発生したトノサマバッタは、世界でも例のない大きな被害を与えた。 太陽が見えなくなるまで飛んできて畑のものを食べ尽くし、草ぶきの屋根まで、食べてしまう。 開拓使は、発生地の調査に乗り出し、十勝がバッタの発生地という事になった。 懸賞金つきで駆除したバッタ1500トン バッタの数にすると364億2900万匹、殺したバッタを大きな穴を掘って埋めた。 十勝ではその穴が何百もありました。 この穴は(バッタ塚)開拓記念碑として所々にある。


(2) 狩 勝 峠 標高644m “日本八景のひとつ”明治36年に鉄道建設が始まり明治40年9月に完成。


(61)に述べたことがこの工事の時にあった。 死ぬとコモに包んで埋められた。狩勝トンネルの補修工事の時、土くづれ、人骨が落ちてきたそうです。ここで死んだ人、その数は今もわかっておりません。

☆ 峠をSLで越えていた頃、先頭1台うしろに1台 又、2台連結でレールに砂をまきながら峠を越える姿、力強い豪快な風景でした。 今は、新得から狩勝トンネルでつながっている。 線路の跡地は植林している。


(5) 落 合(オチアイペツ)河口の合う所                                    
この地は空知川の水源地帯、多くの川が落ち合っている。(同音同意語)


(6)  幾 寅(ユクトラシ)鹿の登って行く所              

☆  金山ダム湖  昭和42年に完成・周囲26km、金山貯水池。                        
石狩水系の空知川をせき止め、洪水調節、水田のかんがい用水、最大出力 2万5千キロワットの発電を行なう多目的ダム。 
このダムによって空知川流域の洪水の不安を解消し、米どころ、富良野盆地の水田2万1千ヘクタ-ルに送っている。


(7) 東大演習林(東大大学の演習林)                                      
明治32年に創立され2万4千ヘクタ-ルの敷地。 百数十種類の木を育てている。野ネズミや冷害、
病虫害に強い木を育てるための研究をしている。

☆  夕張山地  夕張岳 1668m、 芦別岳 1727m、 布部岳 1348m、 富良野西岳 1331m


(8) 富 良 野(フラヌイ)臭い火炎                                      
十勝岳の流れる川の水に、硫黄の臭気があるところから呼ばれるようになった。

☆北海道の中央に位置する富良野盆地、農産物、果樹園、園芸作物を生産し穀倉地帯として発展している。


《 富 良 野 観 光 》


(イ) 麓郷の森は、ドラマ北の国の建物を再現。 山のふもとは、畑に不向きな所で、石がゴロゴロ開拓は大変、
人は土地に執着がある このように開墾している。

(ロ) チーズ工房・工房見学。 チーズ工房横のアイスクリームがおいしい。 

(ハ) 北海道のヘソ(中心地)の碑が富良野小学校校庭にある。                       
正式には「北海道中央緯度観測標」(東経142度 北緯43度22分)

(ニ) 富良野ワイン工場・工場見学。 昼食、ここのレストラン展望良く、食事も良い。

(ホ) <![endif]> ラベンダ 昭和12年フランスからタネを輸入して植えたのが始まりです。 富田ファムで香水を採るためにラベンダを植えたのが、初夏、むらさき色に一面に咲く花を観賞に観光客が来るようになった。 ラベンダ香水研究所で香水の販売している。合成の香水はどこでも売っているがラベンダ香水はどこでも販売していない。 こことプリンスホテルぐらいです。 

(ヘ) 日の出公園・スキー場斜面にラベンダが咲く。

(ト) フラワーランドかみふらの、JTB指定(有料)


(9) 上富良野  明治30年、田中常次郎を団長とする、18戸の三重県団体が入植、開拓の始まり。

(10)<![endif]>美 瑛(ピイューペツ)常に白く濁った川・又は(ピイエ)油の意味「油の流れる様な川」


《 美 瑛 観 光 》


☆ パノラマロード

(イ) 美馬牛小学校〜拓真館>世界に知られる日本の風景写真家、前田真三氏が1987年に開設した写真ギャラリー。 
美瑛の風景写真を展示している。(入館料無料)

(ロ)【時間があれば】四季の交流館>びえい産の昔から伝わる調理法、工芸品の自習、展示、試食がある。

(ハ)【時間があれば】四季の情報館>観光情報、びえいの四季をハイビジョン映像と 情報コーナー、特産・物産の展示。

(ニ) 新栄の丘展望公園>パノラマの路の途中、景観絶好の場所。

(ホ)【時間があれば】三愛の丘展望公園>大雪山、十勝岳連峰を望む、南西に美馬牛小学校が見られる。

☆ パッチワークの路【西側の観光はどの路を通ってもパッチワークが見られる】

(イ) マイルドセブンの丘、タバコの宣伝につかわれた。(砂利路)

(ロ) 北西の丘展望公園>ラベンダ畑、しゃれたログハウス、がある。

(ハ) ケンとメリーの木>スカイラインの宣伝につかわれた。

(ニ) セブンスターの木>タバコの宣伝につかわれた。                            
 【このコースは、時間に余裕をもって観光する】

☆  国道237号コース                                            
深山峠展望台・カンノファーム・ハーブヒルふらの・こたんの丘、2ヵ所にしぼる。せぶるの丘>約3、000本のラベンダー、ポピー、
ひまわりが咲き誇る。          【このコースは、短時間で観光する事が出来る】

☆  美瑛観光モデルコース                                           
富良野観光は見る所が多い、時間がたりなくなる、これだけは観光をしたい。                    
深山峠展望台・拓真館・新栄の丘【この3ヶ所観光で、お客さんは満足します】


(11)  石狩山地                                                 富良野岳 1912m、十勝岳 2077m、美瑛岳 2052m  十勝岳噴火(大正 15年 二村落埋没 死者 144人)(昭和 37年 硫黄鉱山施設 被害 死者5人)(昭和 63年 12月泥流発生、白金温泉被害 山麓の人避難する)冬の噴火が、雪をとかし大泥流になる。   


(12)  芦 別(ハシュペツ)かん木の中を流れる川・又(アシュペツ)深く険しい流れ 明治26年、山形県人が移住、開拓の始まり。 石炭でさかえた町だが、現在はさびれるばかり。               

(13) 赤 平(フレピラ)赤い崖・(アカピラ)山稜の崖
安政4年、松浦武四郎が空知川沿岸で石炭を発見したことから歴史が始まる。明治7年、アメリカ人地質学者ベンヂャミン・スミス・ライマンが石炭の露頭を発見、分析度をつくって開拓使に提出したのが赤平炭鉱の始まり。 立て坑やぐら(高さ43.8m)は昭和38年に完成。 地下600mの立て坑に、炭鉱マン72人、石炭24トン搬送でき、当時東洋一の性能を誇った。 住友石炭鉱業、平成6年2月閉山。


《 エ リ モ コ ー ス 》


(1)  愛 国                                              
明治35年4月、帯広町になったとき、その中の幸震村の一部落に国を愛するの意味で「愛国」の地名が生まれた。


(2) 幸 福 駅 この地区は幸震と呼んでいた。         
昭和40年幸震の幸に入植した、福井県人の福をとって幸福の字名にした。 広尾線が赤字で、鉄道は廃止になっている。


(3) 大 正・・・ 大正4年に三村が合併して大正村が誕生。


(4)  中 札 内(サチナイ)夏に涸れる川

☆  坂本直行記念館                                           
14万平方mを越える柏の原生林の中に、美術館、野外彫刻などが点在する中札内美術村。 自然と共存しながら、地域ゆかりの美術、文化をのこそうと、北海道らしい雄大な試みです。 【融和する自然と人工物】 建物は、クラーク博士の構想のもと、明治10年代に建てられた家畜房の牧牛舎をモデルに、北大出身の坂本画伯を偲び建てたものです。 六花亭の包装紙をデザインした故坂本直行画伯の記念館。

☆  相原求一郎美術館                                             
公衆浴場「帯広湯」を移築。外壁は札幌軟石。 増築部分も昭和初期のデザインを生かした建物。まくら木の散策路も風情がある。 散策路側の柏の木の下にスズランなどの時期の花が咲く、自然を損なわれないよう配慮している。

☆ 花畑牧場  タレントの田中義剛さんが経営する観光牧場。


(5) 忠 類(チュウルイトウ)波の立つ沼川                               
昭和44年、農道工事現場で、約12万年前の全骨格80%のナウマン象化石が発掘された。 
間氷期、大陸から新しくは朝鮮半島から日本に渡って来たのではないかといわれています。


(6)  大 樹(タイキウシ)ノミの多いところ。明治28年、富山県人、3戸の入植の始まり。

☆ 歴舟川又は日方川に昭和初期砂金堀りを行なっていた所。 千人を越す人が入りゴ−ルドラッシュでした。
今でも砂金を掘っている人もいる。(趣味)


(7)  日高山脈襟裳国定公園                                   
(芽室岳、標高 1754m)(戸蔦別、1960m)(幌尻岳、2052m)(ペテガリ岳、1736m)(豊似岳、1105m)日高山脈150km、山脈が太平洋になだれ込む襟裳岬、荒々しく波が砕ける断崖絶壁は壮観。 日高山脈は地殻変動で海底部が隆起し、り上がって誕生、火山のない山脈。  岩石も、赤石、青石と庭石に使われている。 日高瑪瑙、十勝石が産する。


(8) 広 尾(ピラオロ)崖の多い所、古くからの漁場、十勝港がある。 江戸時代中期(325)年前頃、和人が住み、漁業をしていた。


(9) フンベの滝(フムベ)鯨  この浜に、鯨が揚がった事から付いた。 この滝は地下水が崖から吹き上がっている。


(10) 黄金道路、                                              
この道路は 昭和2年から8年をかけて、つくっては波で流されの繰り返し、当時のお金で95万円かけて完成した。 
昔、10円札を並べたほどの巨費を投じた所からこの名が付いた。 現在でも工事費が、かかっている。

☆ 海難碑・昭和の始め20艘余りの漁船がシケの為遭難、数十名の命を奪った。


(11)  庶野の山桜                                               
道南一のさくらの名所、右手高台一帯自然樹が1万2千本、樹齢百年を越えるのもあります。


(12) 百人浜供養碑一石一字塔                                        
文化3年、南部藩、御用船がこの沖で難破100人の乗組員、海岸にたどりついたが飢 と寒さで全員死亡、
小石に名前 経文を書いて供養した。


(13)  襟 裳 岬(エンルム)尖出した岬  北海道最南端                           
 明治22年、えりも沖を照らすため襟裳岬灯台を設置する。 岬は今も波の浸食を続けている、沖合いに点々と
岩礁にゼニガタアザラシが見られる。 エリモ「ねずみ」の意味もある。 襟裳の語源の定説は定かではない。

岩礁群が2q先まで波しぶきを上げて海に沈み込んでいる。 襟裳岬は、風速10m以上の風が年間290日間、人呼んで風極の地。 歌手島倉千代子「風はヒユーヒユー波はざんぶりこ」 森進一は「エリモの春はなにもない」と歌っている。  [風の館]風速25mを体験できるコーナがある。特産物(日高昆布)


(14) え り も 町                                              
豊かな海岸に恵まれているのに アイヌ人の戸数が少なかった。 明治2年、開拓使の所轄となり、明治5年開拓使保護のもとに南部、津軽、秋田からの移民によって開発された。 現在はえりも道立公園 4万5千ヘクタ-ルの中心となり漁業、観光の町として発展している。


(15) アポイ岳(アポイヌプリ)火が多くある山 標高 811m               
昭和46年から毎年8月に「アポイ火祭り」を行い 、発展、登山者の安全を祈願している。 アポイ岳は、高山植物の宝庫、約 800種類。北海道は気候が厳しいので、本州で3000m山岳でしか見られない高山埴物が、北海道では1000m位で生育する。                        

アポイ岳でしか見られない埴物、アポイクワガタ、キク科のエゾコウゾリナ。氷河時代の遺物高山蝶「ヒメチャマダラセセリ」(天然記念物)の発見は、この山の名を世界に広めた。 高山埴物群落は、昭和27年、国の天然記念物に指定。        

☆ 日高耶馬峡                                                
アポイ岳が海岸に約6km断崖をつくる海岸景勝地、大分県の耶馬峡に似ていることから、この名が付いた。 春、エゾヤマツツジが咲く。


(16) 様 似(エサマシ)カワウソの多くいる所                                 
 蝦夷三官寺のひとつ、等樹院(天台宗)徳川幕府蝦夷地政策で蝦夷地に広がってゆく キリスト教の取締とロシアの侵略におびえる幕府が北海道の守りと開拓の為、文化3年建立。 本堂は明治維新の混乱をえて明治18年、廃寺となり本院はなくなった。 
残っていた護摩堂を中心として再興され、昭和40年に本堂が、新築されている。(厚岸、国泰寺) (伊達、善光寺)  


(17) 浦 河(ウララペツ)霧や、モヤの多い川                                 
江戸時代寛政年間(1789)南部藩兵300人を駐在させ、行政の中心とした。浦河は、五冠馬シンザンなどを生んだ日本有数の馬産王国。
軽種馬トレーニングセンター(北海道競馬に出走するために設けられた施設)軽種馬育成センターなどがある。                     


(18)  三 石(イマニッウシ)魚の焼く串のある所、なまって三石と書いた。                   
日高は昆布の産地(日高三石昆布)は有名。


(19)  春 立(ハルシュナイ)食料の多い沢                                  
アイヌの人達の食用になる草が生えていた。 この沢に和人が住み始めたのは今から明治26年頃の事、
それ迄はアイヌの人達の楽園でした。


(20) 静 内(シプッチナイ)アイヌの始祖がいた沢  又、(シャチナイ) 広い川のある沢            
この町の歴史は古く、 江戸時代寛永(1634)静内川の上流に砂金採取の為入植した。 自然の条件に恵まれている為古くから、
松前藩の直轄地として栄え、この地方の中心として発展。 明治4年、淡路地方から約540名、集団開拓。

☆ 寛文の乱(寛文9年) 酋長シャクシャインは、和人との交易ではごまかされ むりやり働かされ、アイヌの立場は悪くなり、アイヌ人の ゆくすえを考え。 「松前藩のやり方はだんだんひどくなっている。 我々は、これを黙って見ている事はできない、いまこそアイヌ人は立ち上がろう」とアイヌの人々に呼びかけ、松前藩との戦いをおこした。 はじめはアイヌ側が勝ち続けたが、食料はなくなり、粗末な武器しだいに不利になり、国縫川の砦攻められず、シブチャリ(静内)におしもどされてしまった。 1669年10月23日松前藩との和睦の席で、松前藩のたくらみにシャクシャインは殺され、シャクシャインの乱は終った。 この戦い後、松前藩のアイヌ人に対する力は、いっそう強まり、1789年、国後島、羅臼の戦いを最後に、アイヌ人の勢いはおとろえて行きました。 真歌公園に英傑シャクシャイン像が立っている。 「シャクシャイン法要祭」が10月23日間歌公園で伝統的儀式にのっとって開かれる。静内アイヌ民族資料館がある。

☆ 20間道路桜並木  幅36m全長7kmにわたってサクラ、5月上旬約1万本咲く。



(21) 新 冠(ピポク)岩の下、岩の陰と呼んでいたが。                             
新冠川川口に大岩壁を判官舘 といっているがそれが地名源らしい。          

☆ 新冠牧場明治5年、馬の改良を目的として創設、明治16年、宮内庁の管轄になり御料牧場と呼ばれた。
エドウインダンの指導によって多くの業績を残しております。軍馬、農耕馬、サラブレットなど生産した。

☆ (サラブレット銀座通り)優駿スタリオンステーション(オグリキャプの牧場)                 
日本ダービ10連勝、ハイセイコウがいる。 全国70% 約5,000頭、日高は馬産日本一です。 サラブレットはアメリカのケンターキイ、イギリスのニュマケットにつぐ 世界サラブレット王国です。 日当たりの良い土地、水、石灰分のたっぷり含んだ土、太平洋から塩分を含んだ霧が牧草に着く、これは馬にとっては良い飼料になる。

☆ 判官館森林公園                                                      
源九朗義経判官が エゾに亡命してここに館を建て、日高地方のアイヌ族を 鎮撫させたと云われている。

☆ 新冠町レ・コ−ド館・・アナログレコ−ドの博物館。                             
全国から集められたレコ−ド約57万枚。 自分の気に入ったものを試聴できる。


(22) 門 別(モペット)静かな川                                        
静内と同じく明治4年、仙台、淡路方面から四百名余りが移住したのが始まり。
門別競馬場・馬産地の競馬場、1周1600m〜直線距離325m道内最長。


(23) 富 川(サルプト)萱の多い河口、生活の影響のある沙流川の富み、富川にした。

                                         

(24) 鵡 川(ムック)つるにんじんを掘って飢えをしのいだ、地名の源。                      
又(ムカツペツ)川尻がいつも変動する川、の説もある。 鵡川に秋シシャモが産卵に上がって来る、最近は俎上が少なくなった。  
柳の葉に似ているので、アイヌ語(ススハム)柳の葉、


(25) 勇払原野                                               
広さ2万6千ヘクタ-ル・・有珠山、樽前山の火山活動の影響をまもとにうけて、火山灰、軽石の層、気温が低いため、倒れたまま分解せず、泥炭となった植物が積み重なって不毛の湿地帯になった。 勇払は湿地・火山灰地なので農業には適さず、開拓は失敗に終わる。

☆ 寛政12年(1800) 徳川幕府は東蝦夷地に武蔵国八王子の同心頭、原平左衛門と弟の新助が、総勢130人をつれて移住、釧路白糠と日高勇払に、北方警備と開拓を兼ねて入っている。〔屯田兵のはしりともいえよう〕新助が勇払に、50人、しかし気候の厳しさで病人、移住2年目で16人もの死者がでる。 その後、病気に倒れ、帰郷者が続失し、入植4年後にこの計画は中止した。 この中に3人の妻帯者がいた、河西佑助の妻、お梅、子供二人を残し25才で病気で亡くなった。 雨の降る夜戸口に立ち、泣きながら「この子にお乳を下さい」と貰い乳、戸を開けると幼い子供を抱きながら、お墓の方に歩く姿があった。 夜泣お梅さんのお話は勇払では、悲しい出来事で伝えられている。 勇払の国策パルプ近くに、八王子同心の亡くなった18のお墓がある。


(26) 苦小枚市 安土桃山時代天正11年(1589)松前藩所管の鰊漁場が開かれたのが始めと云われる。


《 釧 路 湿 原 コ − ス 》


(1) 標 茶 町         
酪農王国、多和地区・多和平大規模牧場、総事業費5億千万円余を投じ1、010ヘクタ-ルの草地造成し、昭和2年着工、昭和46年完成。
 (現在1,554ヘクタール) 多和平展望台から地平線を円く望む 360度のパノラマ〃

☆  標茶開拓のいしずえ囚人達       
 標茶に北海道集治監が置かれたのは 明治18年、収容能力2、000人明治23年に網走に移設されるまで多くの囚人がここで死んでいる。 熊だけが住む原始林を切り開き、苛酷労働と病気に耐えながら道路開削、厳しい見張りの中で逃げる者は切り殺し!病気で倒れた死体はそのまま“残酷物語” 500人余の大量犠牲者をだしたのです。 墓地の一角に「開拓の礎」の碑がある。


(2) 釧路湿原国立公園 面積 29、000ヘクタ-ル      (釧路市、釧路町、鶴居村、標茶町)4市町村にまたがる日本最大の湿原。この湿原は1万年前海でしたが、5千年前頃から海岸線は後退し3千年前位から沼地になり、沼地に生えたヨシ、スゲが枯れて何千年も積もって泥炭になり、この湿原になった。 釧路湿原は日本一の規模で、一部500ヘクタ-ルは、昭和41年天然記念物に指定された。 平地でありながら、ガンコ−ラン、エゾイソツツヂなどの高山植物が、植物学上 興味のある群落。国内最大の湿原。特別天然記念物のタンチョウ・キタサンショウウオなどがいる。


(3) シラルトロ湖・岩々の間を流れる小川の意味       
周囲16km・ 深度1、5m・白鳥が渡って来るので「白鳥の湖」とも呼ばれている この湖にはマリモに似た3cm位の水草が発見されている。


(4) サルボ展望台・・・駐車場から徒歩15分位  塘路湖・蛇行しながら流れる河川を間近に望む。


(5) 塘路湖・  周囲21km・深さ7m 塘路市街・昔は標茶よりたくさんのコタンがありこの地方の中心でした。


(6) 達古武(タツコブ)孤立した山・アイヌの古戦場であったと云われている。

  達古武湖・周囲8km・深さ2m・昔はこの辺も海であった。


(7) 細丘展望台・東から望む。  (夕日の名所)                     

  時間があれば、コッタロ展望台、岩保木山展望台などがある。


(8) 遠矢(トウヤ)沼の岸辺・遠矢駅、昭和2年に設置された。


(9) 釧路湿原展望台・西から望む。  ここからはアフリカを想わせる展望。  

☆丹頂鶴に残された最後の楽園。


(10) 丹頂鶴自然公園・・・面積5ヘクタ-ル       公園の中の林、茂みは自然のままに保存、小川にはドジョウを放したりしている。 
鶴は千年というけれど、高松の栗林(りつりん)公園で82才の記録がある


《 羅 臼. 根 室. 釧 路. コ ー ス 》


(1) 羅臼(ラウシ)低地の意味。 一説には(ライウシ)熊鹿を葬る所。

☆ 羅臼温泉・羅臼川に沿って、湯量も豊富で90度の塩類泉、カッケ、リユゥマチ、胃腸病などに効く。

☆ 羅臼町は日本列島の終着の町、汐風公園に森繁久弥の銅像がある。

☆ ひかり苔の洞窟         
松浦武四郎が知床探険の時この洞窟に一夜をすごしたと知床日誌に記されている。  このひかりこけは、コケ自体光を発するのではなく、コケの細胞にある細胞液(さいぼうえき)がレンズの役目をして、外からの光を反射する珍しい植物。昭和38年12月北海道文化財に指定。


(2) 薫別(クンネペツ)黒い川     サケの俎上、川が真っ黒になるほどサケが俎上する。 この橋の下に鮭の捕獲場が造られる。


(3) 伊茶仁(イチャニ)鮭の産卵の場所                    


(4)標津(シペツ)親なる川 又(シペオツ)鮭がたくさんとれる所        
江戸時代 安永2年(1773) 飛騨の国、竹川久兵衛漁場を開く。標津町・人口約8,000の半農、半漁の町。 
この辺の海岸沿いは遠浅でホタテ、ホッキ、などがとれる。

☆ 野付半島 (北海道の天の橋立)      湾曲した所を(ノッケ)あごの岬。 エビの尾のように28kmある。夏から秋にかけて大原生花園になる・ハマナス、アヤメ、クロユリ、ガンコ−ランコケモモ、センダイハギ、等々多くの高山植物が密生し、湿地帯にはサンゴ草がおおわれている。 主な樹木は・エゾ松、トド松、白樺、エゾ山桜など茂っている。 海水に立ち枯れた、オホーツクの波と風が、トドワラを造る。荒涼たる最果ての地。名物、北海シマエビ。 大町桂月は、尾岱沼は「北の天の橋立」とほめたたえた。


(5)海陽台・360度のパノラマ地平線が円く見える、広大な牧場。(標高271m)        晴れた日には根室海峡、国後島も視界に入る。 中標津・人口23,000人。 産業は酪農が中心。乳牛は約38,100頭と、人口より多い。


(6) 野付・風蓮道立自然公園 昭和37年12月道立自然公園に指定        
風蓮湖は汽水湖、湖畔は広大な湿原。 約300種類の野鳥が生息する。 春国岱は、湖と根室湾を隔てる砂洲、海鳥や動植物の宝庫。 
白鳥台・シベリヤで繁殖し10月北海道に渡ってくる。 大部分が風蓮湖、 尾岱沼、に集まります。 白鳥が集まるのは好物のアマモが(水草)が生えている。


(7) 別海町・面積134、900ヘクタ-ルで足寄町についで北海道2番目の町         
パイロットフア−ム・53万ヘクタ-ルに及ぶ根釧原野、摩周岳の幾度かの爆発で吹き上げた火山灰地。 
夏は海霧のため低温、未開発のまま放置されていた。 昭和30年、事業が始められ、13億 8,000万円の巨費を投じ、根釧原野中央4,619ヘクタ-ル,パイロットフア−ム建設事業が開始された。

☆  パイロットフア−ムは、昭和29年、「国際復興開発銀行」の勤めに基づいて開拓されたもので、当時の日本的農業とは違うものです。 大きな農場を機械で能率的に耕し、牛や緬羊も取り入れた入植方法です。 現在ではこの様な農業は簡単ですが昭和30年頃は大変な事でした。 入植以来北国の新しい農業をうちたてる努力が続けられております。


(8) 根室(ニムオロ)樹木の茂っている所      
江戸時代宝歴(1754) 高田嘉兵衛によってノサップの 航路がひらけ、松前藩が国後場所を開いてから 根室の歴史が始まりました。
大正10年鉄道が通るまで、オホ−ツク海岸へ物資を送り込む根拠地でした。

☆ 根室港・戦前は世界三大漁場の一つ 千島方面の漁業基地として栄えていた。


(9) 沙布岬(ノサッム)岬の陰にある入江      
水晶島、歯舞諸島、国後島、北方領土が望める。日本の東の端、日本で一番最初に 太陽の昇る地点です。 日の出の名所北方領土を望む。 貝殻島まで 3.7km★水晶島まで 7.8km★国後島まで37.4kmモエモシリ島 13.7km★志発島(シボツ島) 25.6km★秋ユリ島13.7km:

(11) 花咲(ポロノト)山の鼻先。鼻先をもじって花咲に。 花咲カニもここの地名をとった。           

☆ 根室車石、車輪のようで名付けられた。 昭和14年、天然記念物に指定。

☆ 海上の二つの島手前がモユルリ島、奥の方がユリル島、昔はこの島にエトピリカが棲息していた「エト」は鼻「ピリカ」は美しい。
クチバシが赤く頭はコハク色体は黒く 鳩くらいの鳥。 海に潜り 魚をとるので定置網にかかり、今は、ほどんと すんでいない。
北方領土には生息している様です。  この鳥は昭和38年、道の天然記念物に指定。


(11) 厚 床(アットコ)ニレの木の多い所       
この辺も釧根原野で、火山灰地で野菜類は育たず、牧草地で占められている酪農です。  

☆  風 連 湖          
根室湾の海水が流れ込む汽水湖、干潟・砂丘・湿原・森林など変化に富んでいる。 
タンチョウ・クマゲラなど300種以上の野鳥が生息している。 日本屈指の野鳥の棲みか。


(12) 浜中(オタノシケ)浜中の中央            
江戸時代元禄(1688)頃、霧多布場所として漁場が置かれていた。運上屋を設けて根室千島のアイヌ人と交易を行なって、寛政年間(1789)頃までこの場所がおかれていた。 明治30年、佐賀藩の支配下におかれ、二戸の移民が入ったのが和人定住の初めとなりました。 
半農、半漁の町。 昭和27年3月4日の地震津波があり浜中町霧多布は全滅、そのご後津波を防ぐ防波堤が築かれている。


(13) 霧多布湿原(キイタプ)カヤを刈るところ。昔この辺カヤが多かった。日本の湿原で最も原始姿が残り、泥炭形成植物群落が天然記念物。夏はワタスゲ、エゾカンゾウが咲く。 ラムサール条約登録湿地。

☆ 霧多布岬 (正式には湯沸岬トウフツミサキ) 夏は霧が多い。


(14)  琵琶瀬(ピパセイ)カラス貝の殻  霧多布市街を中心に南に浜中湾、琵琶瀬湾、湾岸には砂丘がある。


(15) 火散布〔ひちりぷ〕(チュルプ)アサリ貝


(16) 厚岸(アツケシイ)牡蛎のある所        
名物・カキがとれる。厚岸湖には、厚岸草(サンゴソウ)が9月紅葉する。  
国泰寺・徳川幕府11代将軍家斎公、文化元年建立・国指定史跡重要文化財、正行寺本堂。蝦夷三官寺のひとつ。


(17) 釧路(クッチャロ)沢の水の出口。 釧路市は人口22万人の道東一の都市です。               
港、漁港があり日本一の漁獲がある。 水産加工工場が点在し発展している。 以前は北洋船団、鮭鱒船団、捕鯨、と釧路は
景気がよかったが、200海里のあおりで、北洋、鮭鱒船団、捕鯨もなくなったそれでも日本一の水揚げがある。                     

☆ 釧路市米町、釧路発祥の地に、啄木小公園 啄木の碑がある。          

『しらじらと 氷かがやく 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな』と歌っている。  


(18)  釧路湿原                                               
昭和62年、国立公園に指定された、日本一の広さを誇る大湿原である。  釧路市、釧路町、鶴居村、標茶町の四市町村にまたがり貴重な動植物が生息、繁茂するほか、シラルトロ湖、塘路湖、達古武沼、など景勝地がある。 湿原内には、ヨシ、スゲ、ハンノキが群落、ツルコケモモ、イソツツジなど生育する。 キタサンショウウオは氷河時代の遺存種として有名。 また、特別記念物タンチョウの巣地が点在している。
湿原の西側からは釧路市湿原展望台、東側からは細岡大観望がある。       


あとがき
この観光資料は、要点だけを取り入れて集約してあります。 説明文がつながらない、ところがありますが、説明文の中に自分なりの説明を入れて観光案内をして下さい。 誤字、間違った説明文は正して、観光資料の一部にして下さい。  観光にたずさわる人方の、ご協力をえています。 ありがとうございました。 長井 二與


                             観光目次始めのペ−ジ




inserted by FC2 system