北海道観光案内
道 東 観 光
(1) 新千歳空港
大正15年(1926)の秋、当時の北海道鉄道の苫小牧~札幌間、開通の祝賀ビラを撒くために小樽新聞社の飛行機が、
千歳村上空に飛んでくることになった。 当時の千歳村長が「ビラまきの飛行機に着陸してもらうか」と、村民に
相談!全員、「飛行機に着陸してもらう」と決る。 この着陸地は、村民が無償で切り開く、幅100m長さ200m
滑走路とはいえないものでした。そして小樽新聞社の飛行機が降り立ったのが千歳空港のはじまりです。


☆左滑走路自衛隊の基地、道路右側民間使用、左側の大きな建物は政府専用機格納庫、
パイロット、スチワーデス、乗務員、全部自衛隊が管理をしている。

(2) 千歳市は、昔アイヌ語で(シコツ)
大きな凹んだ所の意味和人は死骨と呼んでいた。 
これでは縁起が悪いと、函館奉行が、シコツに鶴が棲んで居る.鶴は千年という事で 千歳と付けたそうです。 
北海道の地名は、ほどんとがアイヌ語を、意訳、音訳、転化、して現在の地名になっています。
(トウ)沼、湖、(別、ペツ)川、河、(平、ピラ)崖、(ヌプリ)山岳、(ペン)上の方、(パン)下の方、
(アイヌ)人、に訳して変わります。 漢字の意味と、違う意味になる。


☆ インディアン水車8月中旬~11月下旬にかけて水車を設置その歴史は古く、1896(明治29年)から実施されている。

(3) 長 沼(タンネトウ)細長い沼 
意訳して長沼とした。農作物・米、野菜、豆採類など、 牧場、酪農、養鶏、養豚。

(4) 栗 山(ヤムニウシ)栗の木の多い所。 (ニ)木(ウシ)多い所 
栗沢(ヤムオナイ)栗のある沢 (ナイ) 沢・湿地・川、場所を意味する。

☆ 昭和20年7月、東京都葛西、江戸川、北多摩郡から14戸、栗沢に拓北農兵隊栗沢隊が開拓に入る。
(別記、拓北農兵隊参照)

(5) 石狩平野          
関東平野に次ぐ平野、1万年前は、海が狭まり湿地帯で地盤の起伏の繰り返し、
石狩川の土砂の堆積で、石狩平野なった。 

☆ 江別(エペトケペツ)川尻が三つに分かれている
東京都世田谷区から昭和20年7月、移民が江別・角山に 江別隊として26戸入植、農民などの援助で営農に
着手したが、敗戦をえて9月には24戸に減っていた。 開拓者が組織した角山開拓農協は、昭和46年に解散したが、
この時農家7戸、非農家2戸となっていた。(別記、拓北農兵隊参照)江別角山地区は、土地が悪い。
同じ石狩平野でもこれだけ差がある。 現在は、工業、産業の工場、倉庫、資材置場など点在し発展している。

(6) 岩 見 沢 
岩見沢の云われ道路工事の人夫が沢で風呂に入ったのが(ユアミザワ 湯浴沢)岩見沢の説。 
岩見沢は、明治17年(1884)に村ができましたが、明治25年、岩見沢~室蘭に鉄道が開通、
近郊で採掘された石炭の輸送の拠点として繁栄する。

☆ 岩見沢は、ばんえい競争が有名です。 古くは、ギリシヤのオリンピア祭の馬車競争に端を発し、北海道では
開拓農民のお祭り、ばん馬競争である。 昭和21年、競馬法の中にばんえい競争が入れられた。 
昭和22年、旭川競馬場で初の公式ばんえい競争として開催された。 ばんえい競馬場は、旭川、帯広、北見、
岩見沢の4競馬場で開催している。出走馬の種類・フランス原産のペルシュロン、ブルトン、
アメリカ原産の ベルジン、ライスデール、それらの混血種の系統が主である。

 馬体重量は3歳馬700kg以上, 4歳馬以上は750kgの制限がある。 軽競争馬の2倍の体重がある。
大きい馬は1トンこえる。 走路、コースは直線200m10頭立セパレートコース、第1障害は高さ約1m、第2障害約
1.6mが設置されている。 番組・負担重量、3歳馬ばんえい重量500kg・4、5歳馬560kg,4歳馬以上は600kg,
馬のクラス分け、重量によって収得金額に加増されていく。 岩見沢サービスエリアで実物大の模型がある。

☆ ばん馬競争
 開拓当時は、娯楽がないので、農家のおやじさん達が自分の馬のちから自慢を、するため、ばん馬競争を
楽 しんでいた。「 ヨーイドン」 大きな馬が荷を積んだソリを引っ張って走る姿は迫力があった。 

馬が障害を上れない、ちから尽きて休んでいると馬のおやじさん、棒切れで馬の尻をたたく、馬はチカラしぼって
少し動く、又止まる、おやじさん興奮してそばにあったスコップで尻を”ペタン”ひっぱたく馬は痛さに飛び上がる、
障害乗り越える、お客さん拍手大喝采、馬とおやじさんの駆 け引きが面白かった。 
今ではこのような、ばん馬競争は見られない。          


☆  ドサンコ馬
昔、にしん場で使った日本馬(小形馬)が、にしん場が終ると山に放した、
いろいろな馬が掛け合って「どさんこ」になった。
ドサンコ馬は、体は小さくても、北海道の開拓に活躍しました。 農耕馬と、ドサンコは別の種類である。 
昭和に入って開拓が本格になった馬も大型化されて力の強いペルシュロン、ベルジン、などと掛け合わせて
農耕馬になった。農業が機械化されて、最近、農耕馬、ドサンコが少なくなっている。

(7) 月 形 町 (樺戸集治監)
 当時内務卿だった伊藤博文の発案で、明治14年8月、北海道集治監をつくるのに樺戸がえらばられて
初代監長に、月形 潔、がなった。 のちに、月形潔の月形の名をとって月形町になった。

☆ ”泣く子も黙る樺戸集治監” と言われた。 ここに収容されていた囚人は維新の戦犯、刑期12年以上の
重罪人ばかりでした。  脱獄の名人・明治のねずみ小僧、ニセ札の元祖、熊坂長庵、稲妻強盗、西川寅吉。 
樺戸監獄から脱獄した西川寅吉(5寸釘の寅吉の名は有名)寅吉は塀を乗り越えたとき、5寸釘を打ち抜いた
板に飛び降りた、5寸釘が足をぶちぬきそのまま逃走。 その後捕まったが、西川寅吉は 監獄で家具作り
技術を習得、家具職人として更生したと云われている。

☆ 明治15年、幌内炭抗の囚人を使うと策していた新政府は、石狩郡市来知村(現在の三笠市)に1300人を容する
空知集治監を建設した。 始めは、国事犯が多かったが、凶悪犯も入る様になった。 
脱獄、傷害事件があとを絶たず住民の不安をまねく。

明治17年、監獄看守にサーベル、帯剣を許し、樺戸 と空知に全国初のピストルの携帯を許す。
明治20年、樺戸集治監の囚人の道路づくりがはじまった。 この辺は泥炭地で大変な工事でした。
ここでも多くの囚人が亡くなっている。
(峰延道路)開拓はまず道路(囚人道路)が出来ると、開拓する人が道路沿に開いていった。
(8) 美 唄(ピパイ)烏貝(泥貝)
美しい唄と書いてびばいと読む、沼貝村といった時もあった。明治22年(1889) 屯田兵が入り開拓にあたった。
(美唄屯田兵)明冶23年に屯田兵制の改革により、北辺防備から、開拓に任務の重点が移される。
全道唯一の特科部隊でしたが、肥沃な土地はもらえず、条件はひどいものだった。 
戸主には軍事教練の義務があり、実際に開墾の主力となったのは妻達でした。 男でさえ過酷の開墾。 
女性の厳しさの連続の開墾。“おして知るべし” 現在、屯田兵の子孫が農業を引き継いでいる。

(9) 砂 川(オタウシナイ)砂浜の多い川(歌志内)      
右側古い建物は、炭坑が閉山で(三井砂川)空き家になっている。石炭は石油に、おされ閉山に追いやられました。 
昔この辺の町は、活気がありましたが、今は人口が減り、さびれるばかりです。
(10) 滝 川(ソラプチプト)空知川の上流に大きな滝があるの意味
明治22年、滝川村役場が置かれ、とんでん兵によって開拓された。 石狩川と空知川との三角州、水利に恵まれ、
肥沃な耕地、米の産地として知られる。この三角州に道路、鉄道が交じり合い炭抗、工業、農業と発展したまちです。

☆人造石油昭和16年、日本は大国を敵にまわしていた。 石油資源が少ない日本。
北海道人造石油株式会社滝川工場が操業を開始し、全盛期には千人以上の従員運び込まれた石炭1日3千トン、
しかしこの工場で生産された人造石油はどのくらいあったかは一切秘密で、明らかにされていません。
最近も研究したが、コスト高で採算があわなく取りやめになっている。 その外に松の油も使ったようです。 
発火力がなく使われなかった。日本がこの技術をどれだけ力を注いでいたか想像することができます。

(11) 石狩川は(イシカリペツ)屈折した川の意味、
いくつかの支流をえて、日本海に流れています。 
上流から栄養分の含くんだ土砂を流し、沃野を潤し支流の3角洲には町ができる。(旭川、滝川、江別)    

☆ 蝦夷の語源は石狩からきている、一説には(イショカラッペツ)豊かなものをつくる川、
(イショ)がなまって(蝦夷)になったといわれている。アイヌ語の(イシカリ)は便秘の意味もあります。

☆(カムイコタン)魔神のいるところの意味昔、川筋を道路としていた。 アイヌにとっては急流で交通の難所だった。

(12) 旭 川(チュウ・ペツ)
波立つ川忠別川を指す。 太陽が忠別川からあがる事から、旭川の名が付いたといわれている。
旭川は北海道の中央に位置する、36万人の北海道 2番目の都市。 道北部の行政、経済、交通の中心地になっている。 
旭川は山に囲まれた盆地で、夏は+30度C冬は-30度Cにもなる差が60度Cもあります。 
明治35年1月25日、旭川でマイナス41度の記録がある。

 ”低温で起きる現象”
1.
-4度・水道の凍結がはじまる 
2.-10度・窓やガラスが真っ白に凍り付く、ビールが凍る
3.-15度・ダイヤモンドダスト現象がはじまる。 色々な条件があるがその一つ晴れた日、空気中の目に見えない
チリが凍って光が当る、キラキラと空気中にだよう幻想の世界。(牛乳,ジュースが凍る) 
4.-20度・まゆ毛や前髪に霜が付く 
5.-25度・日本酒が凍る。凍裂【木が凍って裂ける】山から木が裂ける音が「カァンー」という響き、
森の叫びに聞える。 北海道の木の皮が荒いのは凍れのため。
6.-35度・醤油が凍る。 
7.-50度・人が吐く息に含まれる水分が凍り、そのときかすかな音をたてるという。
これをシベリア東部では「星のささやき」と呼ぶ。  

☆ 農業(米作)・材木・パルプ・家具の工場、家具は、大雪山の豊かな地を生かし100万円もする高級家具を、
作っている。 観光の出入り口で発展している。

☆ 明治20年代にこの地区に屯田兵が入った、熊と闘いながら開拓の基がきずかれた。
屯田兵の隊長、永山武四郎(九州、鹿児島出身)の名前をとって、永山町という町があります。 
             
☆  優佳良織工芸館、昭和55年開館  

☆雪の美術館、平成3年開館        
旭川在住の染色作家、木内綾さんの作品を展示。 優佳良織工芸館は優佳良織の全テーマを展示するためにつくられた。
優佳良織の染色は北海道の草、木、化学染料など何百色にも色を染め分け、羊の毛を紡ぎ織っている。 
北海道をテーマに選び(白鳥、摩周湖、流氷、サンゴソウ)など北海道の風土に映える色取りを織っている。
建物は北海道の木と土。 赤みの強いレンガは、北海道の土で焼いたものです。 

 内装の木材は天然木、床材はハルニレやタモの埋木で統一し、各展示室は、埋木、ヤチダモ、オニグルミ、
オンコ、ミズナラなどでつくられている。 埋木とはタモの木が、二百~三百年川や沼に埋まってネズミ色に
染まっている木の事をいう。 この木はどこにでもある木ではないので、製品になると値段が高くなる。
優佳良織工芸館は、緑、白、赤と北海道の風景に映える建物です。
 
☆ 護国神社
北海道開拓の礎となった屯田兵始め、明治2年戊辰の戦争、日清、日露、第二次大戦と異国で散った
護国の英霊60、416柱をお祀りしている。


☆ 近文アイヌ・コタン 
川村カ子ト(ネ)アイヌ記念館・上川アイヌの旧家である川村家のカ子ト氏が、アイヌ文化の伝承を目的にした資料館。 石狩川流域に住んでいたアイヌ人達、都市計画によって市の西地区に集められて出来たのが、北海道第二のアイヌ部落が出来た。 
現在は他の町に移る人もあっが年々減っている。 川村カネト酋長が健在の時は、手工業、
観光などで栄えているが高速道路が出来 、アイヌ・コタンは観光からはずされている。

☆ 買物公園通り旭川のメインストリ-ト平和通りです。
昔、第7師団が駐屯していた頃は師団 通りと呼ばれていたが、戦後平和通りと改称された。
デパ-ト、商店、連ね、花壇、噴水彫刻 などが作られ、車の雑音、排ガスをしめだし、
北海道では始めての買物公園が、昭和47年6月1日にオ-プンしました。


☆ 岩村通俊長官は、上川に離宮をつくり、天皇を迎えて、開拓に励みをもたせようという考えもありました。 
史蹟となって上川離宮予定地がある。(旭川市)

☆旭岳ロ-プエ-
北海道の最高峰標高峰2290m旭岳。旭岳温泉から5合目の姿見の池周り30分くらい散策する。

(13) 愛 別(アイペツ)急流・矢の川・川の流れが矢のように早い。  
伝説・十勝アイヌと上川アイヌの戦い、矢が対岸にとどかづ 弓糸が切れる、上川アイヌのピリカメノコは、
恋人のために髪を切り髪で弓糸をつくり十勝アイヌを撃退した。 と言う伝説がある。

☆ 当麻鐘乳洞 1億5千万年前に溶蝕作用が作った全長135mの石灰洞窟。天井から落ちた水滴が
タケノコ状になるのが見られる。 周辺は鐘乳洞グリンパ-クとして整備されている

☆旭山動物園
日本最北の動物園・オランウ-タン、ぺんぎん、北極熊など色々な趣向を凝らした動物園。
(14) 安 足 間(アンタル・オマ・プ)淵のある所   
石狩川がこの辺りで大きな淵をつくっている所から名付けられた。

(15) 上 川 町(ペニウンクルコタン)上の集落
札幌市の郊外に、花畔(バンナグロ)アイヌ語で(パンナングルコタン)下の集落。 
石狩川の川上から河口まで、アイヌの集落があった様です。 アイスパピリオン極寒体験が出来るユニ-クな施設。
氷点下20度に保たれた室内で氷像や氷柱に触れることができる。 マイナス40度の所があります。

(16) 大雪国立公園は、昭和9年に指定された公園  23万ヘクタール神奈川県とほぼ同じ。
☆大雪山 大雪山は単独の山ではなく、山の集合体の名称です。 
表大雪・東大雪・北大雪、に三地域に分けられる。2千m級の山々が台地状に広がっています。

☆ 山の生い立ち  
約1万年前・旭岳・十勝岳・美瑛富士・トムラウシなどはこのころです。 
約2万年前・富良野岳・黒岳・凌雲岳・北鎮岳・最も古い東大雪・石狩岳連峰、北大雪・約200万年前です。
大雪山は2000m前後の山だが、高緯度なので本州の3000m山岳の高山環境になっている。  
大雪連峰から流れ落ちる数十丈の滝6月新緑7~8月高山植物の群落9~10月紅葉、冬はスキー 自然がいっぱいです。 
 
「富士山に登って山の高さを語れ大雪山に登って、山の大きさを知れと」明治、大正の文人、大町佳月の語録。  
大雪山は頂きが広く、登山者は、一日がかりで縦走します。  主な山、旭岳(2290)、北鎮岳(2244)、
凌雲岳(2125)、赤岳(2078)・黒岳(1984)



(17) 層 雲 峡(ソウンペツ)滝のある川の意味 
 狩川源流域に24kmに続く柱状節理の峡谷。 この絶壁は、大雪山の爆発で溶岩が流れ、冷えて割れた所が柱状節理を
つくりながら固まったもの、(凝結擬灰岩)マリア、観音像、色々な奇岩が、高さ130m、 24kmにわたる絶壁。 
大雪山・層雲峡の名付け親は、明治大正の文人 大町佳月。
*層雲峡温泉・(泉質)単純硫化水素泉・神経痛、慢性関節、リユウマチ*

(18) 流星の滝、銀河の滝,「日本の滝百選」に選らばられた2乗の名   
流星の滝、男滝ともいう、
74mの高さから豪壮に流れ落ちる。
銀河の滝、右の岩が不動の岩銀河の滝、女滝ともいう、
118mの高さからやわらかく優雅に落ちる。
(19) 層雲峡の峡谷は、4角6角の柱状節理で、崩れやすく危険なため峡谷はトンネルになった。 
断崖絶壁、滝が見られなくなった。大函(ポロニセイ)大きい崖、川が堰止った所が箱の形をしているので大函。

(20) 我国最大、高地多目的大雪ダム 標高800m 
昭和43年 6ケ年の歳月をかけて、工事費 150億円、 昭和49年完成、(洪水調節、干害用水、発電、水道)
ロックフイルダム、高さ86m、堤頂長400m、 面積2、92平方キロ、ダムの中に芯と濾過層を入れ岩石を積み
上げた工法、北海道のダムはこの工法が多い。

(21) 石 北 峠 標高1050m
上の銅像は、尾崎天風、この地区の議員だった人で、この道路工事に功労のあった人です。
林道としてつくられたものです。 観音像は、樹齢観音 森林の主な木は、エゾ松 トド松、ハンの木、
ダケカンバ(岳白樺)ナナカマド等 高山植物は7月~8月頃咲き乱れる。
9月初雪12月根雪になる、残雪は5月まである。
    
(22) イトムカ水銀鉱山・野村鉱業株式会社       
昭和12年、水銀発見一時は月産16トンの産出、東洋ーの生産をした。 
両側は水銀鉱山(イトムカ)の跡地。閉山前は住宅が建ち並び 寺、映画館、などがあった所です。
昭和48年、資源枯渇閉山、全部取り壊し今は植林している。
残った工場で、全国から集められた、乾電池の水銀を取り出す作業をしている。

(23) 武華駅逓所 (塩別温泉の近く国道右側)
開拓当時は、鉄道もなく人、馬だけしか通れなかった道でした。
数キロ先に熊がいると馬は動かなくなるというくらい、移動は大変でした。
駅逓所は明治政府から士族が鑑札をもらって営業をしていました。
耕地・21ヘクタ-ル、放牧地8ヘクタ-ル、官給馬6頭与えられた。旅館、郵便の中継ぎ、運送店を一緒にしたようなものでした。 
泊まったお客さん、郵便を次の駅逓に運び、帰るのは1日がかりの仕事でした。 
鉄道が敷かれ道路がよくなり、駅逓の仕事が無くなり駅逓所が姿をけした。 各駅逓所跡には石碑がたてられている。

(24)温根湯 温根湯道の駅
昔は、ここは馬喰達の溜り場だったらしい。開拓で疲れた馬をこの温泉に入れたそうです。今は道東観光の中継の温泉場として盛えています。

 温根湯温泉(オンネユ)古い温泉、温泉の多い所の意味。《泉質は単純泉》100年以上の歴史を持つ道内有数の温泉地。
 近くにポン湯がある。
(ポンユ)は、小さい温泉、温泉が少ない、の意味。 5月にはツツジ山に咲くエゾムラサキツツジの群落が紅紫色にうずまる。
(25) 瑠辺蕊(ルペシペ)
越え下がって行く路の意味、(越路)
この町の80%は森林地帯、木工場が多くある。 からまつの集成材加工工場。 昔は、からまつの間伐材は、
足場丸太。 湿気に強いので炭抗、鉱山の抗木に使われた。 今は、足場は鉄管、炭鉱は閉山、需 要がなくなった。 
からまつは、干割れ、ねじれ節がかたい、大工さんは造作が嫌う、良い所がない。 
その間伐材を細く切り貼り付け集成材に、柱、板などに加工に。
からまつセンターに集成材の加工した、テーブル、椅子、柱、階段材、外色々の製品が展示している。

(26) 相 内(アイヌ・オマ・ナイ)人の多くいる沢

(27) 北 見 市 アイヌ語で(ヌプ-ウン-ケシ)呼ばれていた。 
 野の端、の意味(野付牛)国名をとって北見と付けられた、 隣の街に端野町がある。
明治30年頃ハッカが導入されてから急速に開拓が進み、最盛期の昭和14年頃世界の7割を占める2万ヘクタールの
作付けを誇った、輸出もしていた。 北見ハッカ世界一の生産だったが、合成品や輸入に押され今は生産していない。 
工場跡地にハッカ公園、ハッカ記念館がある。     

☆ハッカ成金もでたそうです。 逸話だが、ハッカを売ったお金を旦那さんが、ヘソクリしようと新聞紙に包んで、
物置にある薪スト-ブに隠した、それを知らない奥様、秋になり薪スト-ブを部屋に取り付け、
中に新聞紙が入っているので、そのまま火をつけた、帰って来た旦那、びっくり後のまつり。 
そのくらいハッカはお金になった様です。 以前はハッカの種が道端にとんで、野性化したハッカが香っていた。 
ハッカ記念館・ハッカにかんする資料などを展示している。かってハッカの生産高が世界市場の70%を占めていた。

☆5万人が訪れる北見菊祭り、菊人形が見応えがある。

☆北見地方は、玉葱の産地、オニオン街道がある。
明治30年代、北見も屯田兵が600戸入り開拓、北見市が生まれた。

(28) 美 幌(ペ・ポロ)
川が集まって広くなった所・美幌川と網走川がここで合流し、広くなって網走湖に注いでいる。  
美幌盆地は豊かな土地、寒冷地作物・ビ-ト、馬鈴薯、麦、北方農業の中心地となっている。

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(29) 女 満 別(メムーアンーペツ)
湧き壷のある川・近くに、網走湖があり、アイヌの人は、網走川に対する湧き壷と考えていた。

(30) 呼 人(イ・オピ・トウ)
分かれ出ている湖・呼人半島・湖に突き出た半島。 湖を二つに分けたように見える処から呼人の地名が生まれた。 
走川は一度、網走湖に流れ大曲りを通ってオホ-ツク海にそそいでいる。 網走湖は自然のダムの やくめ をしている。
(31)に続く

《 佐 呂 間 湖 廻 り 》
(1) 瑠辺蕊峠
瑠辺蕊町の語源(ルペシュツペ)越路はこの峠からでたものと云われている。 
この辺りに昔4号駅逓所が置かれていた。 当時は交通が不便なため駅逓馬が走っていた。駅逓所跡に石碑がある。

(2) 瑞穂~花園
瑞穂に和人が入地したのは、明治40年頃で、京都花園からお坊さんと数十人の人々が移住したのが始まりです。

☆ 栃木部落瑞穂から右に6km位の所に栃木部落がある。 明治43年、栃木県から70戸団体入植。 
栃木県になにか災害が起ると部落から救援物資を送たり、こちらが冷害にあった時には県から作物を送って来る、
お互いに助け合っています。

(3) 富 武 士(トップウウシ)笹のある所 
佐呂間湖、周囲 92km 深さ 20m 水面標高 0m(海水湖)サロマ(サロオマベツ)茅や葦の多いところの意味。 
北海道第1位、全国第3位の大きさを誇る海跡湖、砂丘ができ、夕日の美しさに定評がある。 
オホツク海の荒波で海が湖になったものです。中央 500m切り開いて、外海とつながっている。 
サロマ湖で帆立貝、牡蛎貝の養殖をしています。

(4) 常 呂 町(ト-コロ)湖水のある所
常呂遺跡・この辺の海岸には、およそ5000年前の先住民の縦穴住居跡貝塚、石器など発掘されています。 
ホタテ漁獲量は年間55.000トン。サロマ湖で4年間育てるオホ-ツクのプランクトン、豊かな海にめぐまられている。
「ホタテ養殖発祥の地」の碑がある。 秋には、常呂川にサケが俎上する。
橋の上から群れをなして俎上するのが見える。

☆ ワッカ原生花園  6~7月にかけて、エゾカンゾウ・ムシャリンドウなど300種の花が咲く
(5) 能 取 湖・周囲31km・深さ23m・
水面標高 0m(海水、海堰湖)能取(ノッオロ)岬の意味、帆立貝、養殖をしております。
秋9月サンゴ草の紅葉が深紅に美しい。草丈 15cm~30cm一年草 サンゴの形をしているのでサンゴ草と
呼ばれている。 厚岸で発見されたので、厚岸草といわれている。

(1891年)明治24年、植物学者宮部金吾氏が厚岸町の厚岸湖牡蠣島でわが国で最初に発見「アッケシソウ」と命名
(1921年、大正10年国の天然記念物に指定)しかし牡蠣島の環境変化で植物群は姿を消し、
94年天然記念物の指定を解除されました。
今では能取湖では秋の風物詩になっている。 毎年9月サンゴ祭りが開催されます。
(6) 二見ヶ丘
網走湖、能取湖の中間あり二つの湖を眺望できるので二見ヶ丘の地名が付いた。 
二見ヶ丘農場・この農場は東洋一の網走農園刑務所です。 耕作面積1800ヘクタ-ル

(7) 網 走 湖 
周囲 43km 深さ 17m 水面標高 0m網走(アパシリ)われらが発見した土地、または入口の土地の意味。
氷に直径15cmの穴をあけ、針を10本ほど付けた仕掛けに、ワカサギが食い付き半日で500匹も釣る人もいる。 
近郊の街の、スナックのママさんも釣りに来て夜の通しに出す様です。 骨がやわらかいので、頭から食べられる
天ぷらが最高。 深いところは、塩分が含んでいるので、海水にも、淡水にも、すめる魚がいる。
走温泉郷・湖畔の温泉湖水と森林に囲まれ整備の整ったホテルがある。
(8)  網走刑務所
明治23年8月、この地方開発のため、釧路~網走道路開削約60kmを、北海道集治監釧路分監に命じられた。 
区間は硫黄山~野上峠を越えて藻琴湖~網走に入る山間コ-スであった。 
使役囚徒千人、難 工事でありながら僅か4カ月後の11月に竣工。 犠牲者も少なかったと伝えられている。
明治24年6月、庁舎、獄舎、が出来て釧路集治監、網走分監となった。 
明治27年12月、ようやく囚人過酷労働の廃止になった。

この頃から網走集治監は自給自足による農業監獄を目指して本格的な開墾が始められた。
二見丘に外泊所が設けられて日本一の大行刑農場がつくられた。(集治監とは死刑以外の徒刑者を拘禁するころ)
明治36年、監獄官制の発布により集治監を廃止し、網走監獄と改称。 
大正11年、官制改定により、監獄はすべて「刑務所」と改称、現在に至る。  
大正13年、レンガ造りの表門と外壁がレンガ 550万枚を自家製造して完成した。


☆  網走監獄博物館          
さいはての地獄とよばれた網走刑務所。100年におよぶ歴史と、受刑者の生々しい記録の展示。 
刑務所の古い建物を移築し明治の監獄を再現、刑務所の移り変り北海道の開拓の礎となった。 
囚徒の足跡を後世に残す歴史博物館。年間60万人が入場する。  
リアルな人形で往時の監獄の姿を迫力満点に再現。(見学時間は1時間位)  

☆ 昭和24年、中央道路開削を終えたのち、自給自足による農業監獄を目指し本格的な開墾が始められた。 
二見が丘に外泊所が設けられて日本一の大行刑農場(刑務所農園)がつくられた。 
管理地 1722㌶の中に農地265㌶。社会復帰に向け技能の習得に木工、金属工芸、革工芸、陶器、紙細工など。
労働時間8時間、週休2日、刑が確定した刑期8年 未満の人、年令26才以上の男性。  
定員735人、現在600人が収容されている。

☆ 網走刑務所の住所
《網走番外地》これは網走刑務所の名称である。映画、網走番外地で有名になった。
網走刑務所の受刑者や刑務官は名称をきらって、網走市刑務所官有地とか網走市三眺といって
いる。 刑務所の裏山に三眺山、121mの山から、網走湖、能取湖、オツ-ク海と三方眺める。

受刑者が、家族や知人に手紙を出すとき(網走市三眺)と書くそれで刑務所に届く事になっている。 
構外の区域を網走市字大曲と呼んでいる。 この地名大曲も、川が大きく曲がって流れている、
悪い事をする曲り者がいるという事で大曲の地名が付いたようです。

☆ 天都山 標高 207m 天の都で遊ぶ様でと、天都山と網走市長さんが付けた。 
オホーツク流氷館、 真夏でも、氷点下15度に保たれ流氷を展示。《網走湖付近の温泉は食塩泉が多い》

☆  網 走 市
江戸時代初期(1684)年頃松前藩の命令をうけて、村山伝兵衛が斜里に漁場を開いたのが歴史の始まり。 
昭和22年市制がしかれ、人口4万9千人をこえる水産都市。


☆ およそ紀元6世紀~13世紀にかけての、人々は北海道の北部と東部に海洋資源を求め、
オホーツク海沿岸を活動していたので、この文化は「オホーツク文化」とよばれています。 
オホーツク海沿岸には、流氷が押し寄せます。
 流氷が運んでくるプランクトンを求めて集まる魚や、氷とともに南下してくる海獣は、オホーツク文化の
人々には貴重な食糧でした。 自然の恵みに適応したオホーツク文化が栄えたのです。遺蹟、遺物から
大陸のアームル川流域やサハリンから海峡をこえてきた、北方民族と考えられています。 
モヨロ貝塚はオホーツク文化の遺蹟です。《モヨロ貝塚館》

☆オホーツク流氷舘 流氷をテ-マにした科学館。 
冬のオホーツク海から引き上げられた流氷を展示。流氷体験室では氷点下15度の気温を体験できる。
ハイビジョンシアタ-でオホーツク海と流氷。網走地方は先住民の遺跡が多く国の史跡もモヨロ貝塚、
オホツク文化を知る事が出来る。
(30)から続く
(31)藻琴湖 (モコトウ)静かな・眠ったの意味。 
周囲 7km、深さ平均 2m、水面標高0m

(32) 小清水原生花園                
6月中旬から7月中旬にかけてシ-ズンともなると、ハマナス、エゾスカシユリ、エゾカンゾウ、アヤメ、等の
約40種類の野性 の花が咲き誇る。オホーツク海と涛沸湖に挟まれた国道244号沿いに20kmにわたる細長い砂丘。 

☆ 涛沸湖(トウプツ)沼の口の意味。 周囲 28km、 深さ 3m、 水面標高 0m 

☆ 佐呂間湖、能取湖、網走湖、藻琴湖、涛沸湖、この湖を網走5湖という(海堰湖)

☆ 斜里岳 標高 1545m、  藻琴山 標高 1000m
(33) 小 清 水(ポンヤムペツ)
音訳して小さい清水の川。 (ポン)小さい(ヤム)湧き水(ペツ)川、世界のユリを集めた
「ユリの郷こしみずリリ-パ-ク」農家の会社 「シナジ-こしみず」 自生のユリをヒントに造園した。 
13ヘクタ-ルの丘に110品種、700万輪が咲きほこる。

(34) 斜 里(サルイ)葦の生えてる所海別岳・1419m
☆ 津軽藩士 蝦夷地警備
文化4年(1807)幕府は全蝦夷地を直轄。松前藩から領地を取り上げ福島県染川に移封された。
変って奥州各緒藩に蝦夷地警備を命じた、津軽藩は、斜里町に駐屯部隊100人を派遣、藩士は野菜不足と寒さで
浮腫病(ふしゅびょう)又は水腫病(すいしゅ)にかかり足から痛みと腫れがはじまり、やがて胸をやられその内
72人死亡、13人が帰国 途中倒れ、無事津軽に戻ったのは15人しかいなかった。 

慰霊碑は高さ3、3m幅 2m知床産の自然石を使用、題字は津軽藩当主第14代津軽義孝氏の書、周囲6mの台座は
オホーツク海の波を形どり、全面にある赤玉石2個は津軽の石で安らかに眠れと祈る。 
“別名百石の碑ともいう”この石、青森県相馬村産である。 斜里町は毎年7月16日慰霊祭を行なっている。
(知床博物館、近くの公園に安置されている・お墓もある・時間があれば寄る。) 

☆知床博物館 
知床半島の地質、動植物、民族資料 ストンサークル(環状土垣)発掘品、 
開拓資料・当時使われた農機具・生活道具など展示。 

☆環状土垣・ストンサークル2千年~3千年前の先住民のお墓、指標から300M位の所にある。
知床から阿寒に行く時に寄る。すぐ隣に今のお墓がある。昔も今もお墓の場所は同じ!


(35) オホーツク海は、北の宗谷岬から知床岬まで、370km弓なりにつながっている。
1月流氷が沿岸に接岸、陸と海とが陸続きになり、騒然な風景になります。 
春風が吹く頃になると、流氷は陸から離れ 浮き沈みながら離れて行く。 
北海道は、太平洋、日本海、オホーツク海と3つの海にかこまれている。

(36) 知床国立公園 
昭和39年に指定された公園 65kmオオツク海に突き出た細長い半島。
斜里町と羅臼町にまたがる38,633haの自然公園。 各所に絶景、奇観奇岩群は、火山活動による隆起で半島全体が
上昇した結果、知床連山から流れる水が岩を侵食し作った自然の彫刻。 断崖絶壁は鳥たちのオアシスとなっている。 
(37) オシンコシンの滝、遠音別岳から流れ落ちている。双美の滝ともいう。 
高さ80mから流れ落ちる、(オシュンクシュ)オンコの木の生い茂っている所。 
遠音別(オンネペツ)親なる川、増水時には滝の幅は5mほどに広がる。

(38) 宇 登 呂 
(アイヌ語にちがいないが、はっきりしない。)わき腹、あばら又、岩と岩の間をたどって行く所という説もある。 
オロンコ岩の駐車場は、昔 海がつながっていた。 オロンコ岩の上にはオロンコ族の砦 があった、アイヌが舟で
オロンコ岩の下を通るときオロンコ族は石を投 げ通さなかったという言い伝えがある。 

☆ウトロ温泉卿、近代なホテル、夕日、産地ならわでの食事、泉質は、食塩泉。

この港は、秋になると活きが良い、鮭があがる。プユニ岬「穴のある所」
展望台からの夕陽は〃最高〃道路は整備され観光道路です。ブユニ岬上左端。
断崖絶壁 秘境 、観光船、知床はこの様に観光化されている。 知床観光船-海上から知床半島を望む。 オホ-ツクの潮風を肌で感じる。プユニ岬「穴のある所」展望台からの夕陽は格別。  
☆ 知床(シレトク)大地の果て、地の鼻 
知床の開拓、大正 3年 60戸の入植、土地は荒れ寒さ厳しく作物はならなかった。
子供が病気になると子供を背負って峠を越えウトロから船で斜里まで、1日がかりで病院へ行ったそうです。  
開拓者は、3~4年で離農、その後、大正13年と昭和30年に開拓に入ったが、土地が悪い、
大きな岩石が突出石はごろごろ、農機具はいたむ開拓ところでは、なかった様です。 
昭和34年から 国の手で 本格的土地改良工事も始まった。 

ブルドーザーを入れて石ころ取り除いたのだが、取り除いた石ころは 耕地の3分1を埋めつくした。 
表土の下から現われたのは真っ黄色な酸性土壌だった。 中和するために、石灰を何トンもぶち込んだ、
ジャガイモどころではなかった。 土地に見切りを付けここは、人の住む所ではないと離農、本州に帰ったようです。 
又、街に出て、日雇いや出面取りになった。 残った者、畑をあきらめ牧場に転換した。

☆ 斎藤平三さんもその一人だった、5湖へ行く右の廃家が斎藤さんの家です。 
5湖の駐車場あたりも牧場だった、斎藤さんの牧場も失敗。     
牛一頭飼うのに経費が2万円、2~3年かけた牛の値段は4万円にしかならなかった。
年間の収入は17~18万だった。只、このあたりで一休みの時、風景が有一の慰めだったと、
知床開拓開基禄に書かれている。 

☆昭和39年、我が国、最後の国立公園といわれた知床国立公園が誕生した。
地元や本州の不動産業者が1ヘクタール30万円。 
離農者は争って土地を売り、その土地は、五倍、10倍の価格で投機者に転売された。 
昭和40年最後まで残っ25戸の入植者も、斜里町に集団移住し、一人も残らない、開拓地は原野に戻った。

所々に壊れた、建物が開拓当時の跡です。 斜里町で、自然を取り戻そうと土地を全国の皆様に100平方m、8000円で
買って貰い、斜里町で植樹している。 土地を買っても、記念植樹だけで寄付です。 
登録台帳を置き、登録証を発行する。 全国の有名人(俳優、スポーツ関係、議員)などの方々も買っている。 
この運動も平成9年3月で、5億2千万円、20年間で達成した。 知床公園内100平方m運動を終了。
あと5~6年かけて植林を終らせる予定。

(39) 知床5湖、知床連山の水が地下に 泥炭層を通って溜ったものが沼になった。
知床五湖展望台から一湖が見れます。一湖から知床五湖には歩道が整備され全部廻ると約1時間掛ります。
全コース五湖、1時間位、1・2湖 30分位、足元が悪い。 
知床岳 1254m・ 硫黄岳 1560m・ 羅臼岳 1660m・遠音別岳 1330m・ この山の山麓は、野性動物の棲みか。 
ヒグマ、全域には百~2百頭が生息する。主食はドングリ実、フキ、ウド、秋にはサケ、マス。  
ヒグマの生息地は山林部に限られ、国有林 90%の地域が生息地になっている。 

本道の全面積に占める生息地の割合52%「明治末までは市街地周辺部まで出没していたのに対し、
現在の生息地は狭くなり、分断傾向も見られる」根釧原野、サロベツ原野で全滅が確認されたが、
道内に2500~3000頭、生息するといわれる。エゾシカ、は1万頭以上、ウサギ、野鳥などは知床は
渡り鳥にとっては絶好の休息地。
 国の天然記念物、オジロワシ、オオワシ、シマフクロ、日本には数少ない自然がまだ残っている。
 魚類では有名なシロサケ、カラフトマス自然の
中で生れて北太平洋の海で育ち、ふたたび古里の川に戻って産卵し、生涯を閉じる。 
ホッケ、カジカ、カレイ、ソイ、コマイ、メバル、特に羅臼は国内でも有数の漁業のまちです。
知床レストハウス売店、食堂、開拓資料、大型スクリンの映画などがある。知 床 峠 標高783m
 知床横断道路の中間にある、目の前にある羅臼岳、海上に国後島が見える。
知床五湖展望台秘境の感じはない。知床一湖展望台からここから
えぞ鹿の生態も見れるときもあります。
(40) 国後島(北方領土) 面積 1500平方km細長い島、島との距離は 16km。
知床最高峰の羅臼岳、晴れた日にはオホ-ツク海に浮かぶ国後島が見える。 
高山植物は花の期間は7月いっぱいと短い、本州だと3000mに咲く花が1000mで見る事ができる。 
登山者に人気なのが、羅臼岳~硫黄山。高山植物の咲き乱れる時は最高です。

  占領された島々
第2次世界大戦で日本が敗戦し、昭和20年8月15日「ポツダム宣言」受託、ソ連軍は千島列島を南下北方領土を占領。 
島で生活していた人は、暗闇の中小船で島を離れ、途中亡くなる人もいたようです。 
引き上げた人は島の見える根室地方に落ち着いたそうです。いまだに北方領土変換運動叫んでも帰る気配は無い。
(41) 清 里ジャガイモ焼酎の工場。 
この地区は、ジャガイモの産地。特産のジャガイモを原料として、清里町焼酎醸造事業所が製造「ジャガイモ焼酎」
辛口のジャガイモ焼酎「きよさと」新ボトルも売れ行き好調。 この辺は、春遅く、秋が早い、現在は寒い年でも
収穫出来る様になりました。 寒冷地作物、 ジャガイモ、小麦、ビート(砂糖大根)


道東観光2へ続く   


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