人生振り返って

  はじめに
 私は新制中学を卒業してから働くが、住所を転々と替えた自分は何がすきなのか解らない。住む所、十勝、足寄、釧路また十勝に戻り最後は札幌に住む。札幌に来た時は、布団、竹行李、風呂敷包みに衣類、これだけの荷物、お世話になっている母の知人の家に一週間お世話になる。昭和三十九年・念願の下宿生活、下宿近くの運送会社には入れた。
 
 これが私の車に乗るきっかけになる。 荷物の配達、会社から一歩出ると、自分の世界、面白く仕事に張りが出て一所懸命働く、会社に認められ、大手の電気会社のチャター車に配属された。電気会社は北海道全区域のサービスを受け持っている、家電製品にトラブルがあると北海道隈なく走り回った、部品交換、私に合った仕事でした、家電修理も覚えた、この経験がパソコン操作に役に立っている。 
 
 運送会社の倒産、新しい仕事に就くか!迷う!結婚したばかりお金がいる、当時は景気が良くなる前兆でした、タクシー会社腰掛で入った仕事が本業になる。
 昭和五十年から個人タクシー営業、人生が変った、個人タクシー廃業してから、今までの生き様を思いだしながら・・・生きた成り行きを綴って行きたいと思います。
 私の人生振り返って見る、綴りだして融通の利かない自分が、あきれるものばかりです。場所、名前、会社は実名ではありません悪しからず。字抜け、誤字、文の誤りなどがあります、気がつき次第直していきます大目に見てください。

  生まれ故郷
 昭和十年・開拓の小さな町に生まれる。本州から父の叔父一族が北海道に渡り小さな運送店を設立する。現在と違って車がない時代、馬車の配達でした。父は両親に早く死なれ叔父に育てられた、この町に来てから叔父を手伝い運送店を守りたてた、レンガ造りの倉庫二煉を持ち繁盛した。父は大正十三年に結婚、三女五男、男二人目が私の誕生。

  樺太時代(幼児期)
 私は二歳、母は身重、母の実家に樺太に渡った、母の祖父は昔かたぎの厳格な祖父、樺太では割烹を営み、顔が広く軍属、開拓役人と幅が広い。祖父は母に負い目がある、母は祖父のはじめの妻**令嬢との間に出来た子、祖母は身体が弱く籍が入っていない離縁されている。昔は男子が生まなければ籍に入れられず離縁というのがのこっていた。
 母は生まれてすぐ養女に出されている、継母に育てられ、痛めつけられ傷だらけ、学校にも行かず働かされられたそうです。見かねた近所の人が警察に訴える。
 母は警察で台に立たされ警官に「この傷、この痣は」と指摘され恥ずかしい思いをさせられた!人にはいえない苦労があった。祖父の家に来てから私は祖父に可愛がられたが、北海道で父の運送店倒産、姉兄達と父は大変だった。

 父子は夜逃げ状態で函館に留まる、父は仕事を探すが戸籍がない戸籍を作るが間違いだらけ、父のあわてふためいた姿が戸籍作成に見える。母は内縁のままになっている、私も結婚するまで戸籍は函館だった。間違いだらけの戸籍が私達姉弟に縁の深いものになる。父は仕事見つからず、姉、兄は臨時雇用など父を助ける。三ヵ月後、母を訪ねて樺太に来る。

 樺太では祖父が割烹を経営している、母は北海道を出てから祖父の所で働いている。父は母をむかえに祖父に会いに来る。私は三才これだけは覚えている、父は食堂の椅子にションボリと母を待つ、私は食堂の廊下から父を見下ろす父は私を見る、父は何か言ったと思うが何を言ったか覚えがない三才の時。
 祖父は学問のある人には一目置いている、囲炉を挟んで父、祖父の横に私が座り、祖父は父に仕事の世話をしていた。炭鉱の帳場に落ち着く。この仕事が父の命を縮めるとは誰も思いもよらない。

 弟が生まれる、半年、弟と暮らすが子供のいない家庭に養子に出される。私は四歳、親の立場は知る由もない、姉達は猛反対、親の事情、子供はどうする事も出来ない。

 昭和十六年頃まで養子先の家に遊びに行ったが、母に怒られ、
昭和五十三年まで会うことはなかった弟は良い家庭に貰われて
一人っ子で育つ・・・

 私が三歳の頃、印象に残る思い出がある。恵須取の浜に鯨が上がる、解体する所を姉に抱かれくじらを見に行く、大きな鯨、頭と胴と切り離され、くちばしが上をむいている、その光景が今も脳裏に映える。父の仕事が決まり炭鉱長屋に移る、炭鉱に来てから父の仕事は帳場(経理)向いている、炭鉱は当時給料が良い、親子平凡な家庭を送れる様になる。
 父はこの時期が一番幸せ時だったに違いない。ある日父が当時貴重なバナナを買ってきた、バナナを家の中に隠し、兄とバナナ探しこれが印象に残っている。

 四男が生まれる、昔の女性は凄いお産も一人で生む、産気づく
昼間誰もいない、母と六才の私だけ「隣のおばさん呼んできて」呼びにいくがおばさんいない!帰ってくると、母は立ちひざで産み落とす「オギャオギャ」私は母の側にいく「針箱からハサミ、糸持ってきて」後から分かった事だが、臍の緒を切っていたのだ、おしめで赤ちゃんを拭いている、兄が学校から帰ってくる「産婆さん呼んできて」当時は家庭に電話など無い。父が帰ってくるオロオロ!母は「お湯沸かして」この様な時は女は強い。産婆さんが来る父はヤット落ち着く!幼児期の強烈な思い出。父はこの時期が一番幸せだったに違いない。

  樺太時代(少年期) 
 昭和十六年、この頃から日本は戦争へと進む、兵隊の軍事訓練を、見に行った、四月から一年生、昭和十七年二月一日夜、父が会社(樺太内幌工業所)から帰ってこない。

 樺太の冬の寒さはもの凄い!寒さで行き倒れになることがある。
 翌日会社までの足取りを探す、近所の人、警察も捜すが分からない、行方不明扱いになる、私七才。
 昭和十七年二月、留守番をしていると、私があこがれていた憲兵隊三名、土足のまま部屋に入り込んできた、部屋の中の何かを探している、タンスを引き出しひっくり返し書類を持って出て行った。
 七歳の子供、あこがれ憲兵隊が恐怖に変わった憲兵隊のちょうか(茶の皮長靴)と腕の腕章が今でも鮮明に浮かぶ。
 その後刑事、特務機関の人方母と話をしている。

  父の生い立ち
 父の祖父は富山藩の役人だった明治政府になり藩はなくなり父の両親は子供のうち亡くなり、叔父に育てられる。当時は藩が無くなると新開地北海道へ渡った。
 叔父さん一家も父も同行、叔父は運送店を興す。
 それも国の政策、大手日本通運が入ってくる、小さな運送店つぶれる、父は新開地樺太へ渡る。それが父の命を縮めるとは思わなかったろう。
 父の生い立ち160字ですが、父は不運な運命に生まれた、人の運命は計り知れないものがある。
 
 炭鉱工業所の帳場、当時の樺太は石炭、増産増産で朝鮮人は強制労働させられていた。父は朝鮮人の世話役などしていました。炭鉱事故で朝鮮人が亡くなると、父母は朝鮮人長屋でこまごましく働いていた。一家の柱が亡くなると奥さん子供が「アイゴーチョケタ」と泣いている、この泣き声は生涯消え去る事はないだろう。
 一度韓国の人に、この意味を聞いた事がある「身震いする」と教えてくれなかった、それ以来聞かないことにしている。

(悲しいつらい意味らしい)父母朝鮮人との交際は親密だった。この話を樺太に住んでいた人方にすると必ず「お父さんは殺された」と言う。私がこの歳になっての推理・当時は軍と民間会社のトラブルは闇になった事件はたくさんあります。

 憲兵隊、刑事、朝鮮人との交流、スパイ、会社のトラブル色々考えられる。春になり河の氷が融け河から父の遺体が発見される。
 遺体が運ばれるが昔は戸板にムシロをかぶせたままです。近所の人方の合掌目に浮かびます・・・
 母が警察に呼び出される、私を連れて、父の眉間に子供の頃の古傷が河に浸かりふやけて大きくなり、その事を問い詰めている。
 
 父の同僚が殺人容疑で拘束されていた。母は大声で何かを言っている、子供には解らなかった、恐ろしくなり母にしがみつく後から聞いた事だが、同僚の無実を証明したそうです。同僚を引き取り帰るが、同僚は後ろ振り向き何回も頭を下げ手を合わせていました。当時の警察「おいこら」の時代、暴力拷問、顔は傷だらけでした。母に大人になってから聞くが「あの人には本当に気の毒だった」と言っていた。

 
 父の死亡場所、当時の冬は河の氷に穴を開け防火用水にしたようです。戸籍はその穴に落ちたと推定になっている。道路はずして河に行っても防火用水穴は二月厳寒期凍っていたそこも夜に兄と捜した。
 父の死亡には不明な点がたくさんある、当時は軍国主義、母は何もいえなかったのではないのか・・・
 
 父が死んだ後にも炭鉱長屋に住む、五男が生まれる。生まれてすぐ子供のいない家庭に養子に出された。(口減らし)!
昭和十七年私は国民学校にに入る。学校に行くがクラスに意地悪の奴が私をいじめる、学校に行くのがいやになり学校をサボるようになる。学校から問い合わせが来る、土手で遊びつかれて草の上で寝ていると姉が迎えにきて姉と横になる、何も言ない怒らない「帰るよ」と歌を歌いながら土手を歩く。学校に行くと悪ガキ先生に怒られたのかいじめなくなった。

  母の好きな人
 母も働かなければならない又祖父の所で働く。私は祖父のメンコ学校から帰ると帳場の呼び出し番号を仲居さんに知らせる番兵だ。母は料理人を手伝っている、仲居さんにてきぱき指示機敏に働いている。お客さんに好感を持ち、将校に好かれた。
 祖父の所は割烹食材は良いものが一杯あった、牛肉は足ごと一本ぶら下がっていた。軍属、財閥などの宴会、会合など時々あった。母の好きな人毎週来る将校がいた。襟章金の線二本、星三つだったと思う。

 ふと目を覚ます母がいないトイレに起きる、店は終わっている調理場は真っ暗、祖父も寝ている客間を見る電気がついている障子のガラス越しに母と将校が楽しそう!見た事がない母の笑顔。
 私は三年生まだ子供、男と女の事など分からない!客間に「かあちゃん」と入る、将校「坊やごめんごめん今帰るから」軍帽かぶりサーベルを下げ暗い廊下を静かに歩く、祖父に気を使ったのだろう。二人は出て行くが母は部屋に帰ってこない、しばらくして母が帰るが、窓明かりに布団に座り窓を見て清々しい顔・・・その後将校を何回か見かけるが来なくなった。
 南方で戦死したそうです。母は見合い結婚恋などなかったと思う、始めての恋なのでは・・・

  モルヒネ中毒
 母の思い出に仲居さんのモルヒネ中毒(劇薬)に罹りそれを母が治した、仲居さんを布団部屋に監禁、禁断症状になると暴れる仲居さんの足、手首縛り寝かせる、見張りは私!何かあると知らせる、ご飯を持っていった、期間は分からないが治した、当時樺太は専門病院などない時代です。モルヒネ分からない人は検索

 恵須取浜火事
真夜中母に起こされる近所が火事、浜風が強い、弟と裏山に逃げる、大きな火の粉が飛んで来る山に火の粉が刺さる山燃え出す、下を見ると家が次から次燃え移る、祖父の家も燃え出す。

 大事なものを母、兄、姉がかろうじて持ち出す。裏山は風当たりが強いガタガタ震えていた、燃えるのを見ているだけ。当時は木造住宅がほどんと太い柱だけ残して灰だけが残る。
 恐怖寒さ、よく死ななかったと思う。姉兄は今でも当時の話するが火事場の『馬鹿力』普段持てない荷物を持ったと驚いている。祖父の家が燃えたので、私達親子は山市街に移る。
 上の姉は看護婦の免状をとり炭鉱病院に勤める。下の姉は電話交換手、私は四年生、昭和二十年大東亜戦争が激しくなる。

  生と死の狭間
 昭和二十年八月十一日、樺太恵須取浜市街は艦砲射撃、爆撃、焼夷弾、浜市街は火の海。浜市街の空は真っ赤に染まり燃えている。八月十三日、山市街もソ連の戦闘機の機銃掃射、爆弾投下、ここも危険、山に逃げようと母、近所の叔父さん達は「早く逃げろ」と怒鳴りながら行く。
 母は夕方まで姉の帰りを待つ、姉は郵便局(電話課)に勤務、局も機銃掃射、爆撃、弾丸は壁を突き破り姉は電話台にしがみついていたそうです。
 電話交換手は命令があるまで持ち場を離れられない、憲兵隊の避難命令、命からがら帰る。

 夜遅く母に起こされ(交通機関は止まりどこえ行くのも歩き)
ソ連の上陸ここも危ない、着の身そのまま、あとは非常食(干しご飯、大豆の煎り豆)を背負い、暗い山道を歩く、火の玉が飛んで来る艦砲射撃の弾丸良く私達の所に落ちなかったものだ。
 だれもいない農家に泊まる(住民は退避して空屋)私は四年生危険の度合いが解らなかった。
 同じ避難する人が入ってくる、女子供何されるか解らない寝ていられない。又暗いが山道を歩く姉達は先を行く。

 夜が明けて私は足に血豆痛い、愚図り母を困らせながら橋の上にしゃがむ、橋の下を見る動かない赤ちゃんがいる母に知らせる。母は手で私の顔をふさぐ「行こう」と無言!私は足が痛い泣きながら着いていく。今思えば赤ちゃんは死んで捨てられたのだ。
 足が痛くて道端で休んでいると近所のおばさん休もうと腰を落としたとたん!ソ連の戦闘機『ダダ・・・』機銃掃射、逃げる暇もない、おばさんの顔に当たった!おばさんのぞける顔は真っ赤だ!

 母は私の手を引っ張り走る私は泣きながら後ろを見る!おばさん動かない「おばさん血だらけなっている」泣きながら走る。先に行っている姉達と合流、見んな無事ホットした母の顔。母の冷静機敏な行動、今でも頭が下がる。固まって歩いていたら撃たれたかも知れない、人の運命は計り知れないものがある。
 
 一番危険だったのは、兄が道端で拾ってきたソ連製の手榴弾(子供何も知らない)それを振り回している、母一括!あの時爆発していれば母子死んでいたかもしれない。昼間は危ない夜歩きになる、姉は弟がはぐれない様に、帯で繋いで歩く。
 

 真っ暗の中歩くので親とはぐれ泣き叫ぶ子供!私もそうだったに違いない。私は靴ずれ血豆痛い、弟は平気、弟がうらやましかった。食べ物は干しご飯、いり大豆(母は緊急食作った私も手伝った)

 姉兄は空き家の中に食べ物探して食べさせてくれた。ここに養子に行った弟二人いたら、野たれ死にしたろう。色々親の都合で姉弟が離れ離れになったが現在がある。

 山の中二日歩いて小さな街に着く。
 母の知人宅により一時身を寄せるが、すぐ避難トラックに乗せられる、これから後は記憶にない、何かにつかまり振り落とされないように、それだけは覚えている、振り落とされたら置いていかれたそうです。トラックの荷台で私は寝ていたそうです。良く落ちなかったと思う。
 私達は山道を来たから良かったが、海側を行った人方は空爆、艦砲射撃!地獄そのもだったそうです。汽車に乗り継ぐ、無蓋車(屋根のない貨物車)に乗せられ真岡に着く。
 兄が真岡で義勇兵の徴兵に合い体格が良い「十五才だから残れ」の通達母は「十三才十三才」と係りに懇願その姿は今でありありと浮かぶ。

 一般人(義勇兵)は竹槍、包丁を棒にくくりつけ武器にして敵上陸に備えたそうです。(この後真岡郵便局電話交換手の自決があった)映画になった事実です。

 樺太の都市・豊原に着く、戦闘機が一機飛んで来る、日本の飛行機かと「バンザイ」?ソ連の偵察機だった!日本の飛行機飛ぶわけない、みんな暗い顔・・・
 山に避難が北海道に行くことになる、ただ逃げるだけ。港大泊に着く岸壁に人が黒山、船に乗る順番待ちで岸壁に寝ている、私達も岸壁に泊まる。夜になるウンコがしたくなる倉庫と倉庫の間
一メートルくらいの間に行くがウンコ、ウンコだらけするとこない我慢する。翌日乗船開始、ゾロゾロと岸壁を呆然と歩く人、身なりかまわず順番待ちに並ぶ、残る人、乗る人分けられる私達の前から後何人と区切り始めた母は「区切らないで」絶叫!
 この船は逓信海底埋没線が引き上げ船になった、窮境、逓信関係者優先となった、姉は電話交換手親子は助けられた。

 逓信関係の人方は大部分は女子供だった。この中に姉の友人など交換手、逓信病院などの看護婦など大勢混じっていた。
 小笠原丸が大泊港二十日午後十一時四十五分1514人デッキまで鈴なりの人でした。甲板に人人で一杯これが最後の北海道行きだったようです。

 昨夜からウンコ我慢していた、船の便所は並んでいる!我慢できない甲板をウロウロ甲板の縁にいたおじさん「ウンコしたいのか」「うん」おじさん側にいる人に「ウンコするから見るな」と言い、お尻を海に突き出し見本見せてくれた?

 
 恥ずかしくて出来ないでいるとおじさん服で隠してくれた。
「良かったなー」おじさんに頭『ぽん』『ウンコ同士』にっこり。
スッキリした顔で戻ると母変な顔していた。
 この我慢が夢に見る、六年生まで寝小便、母に怒られた今でも夢を見ることがあるあの時の後遺症です。

 八月二十一日稚内港、母は小樽港に行きたかった姉がお腹の具合が悪く船酔い、稚内港に午前十一時頃着く887人が下船この中に私達が入っていた。
 なんという運命、この船小笠原丸は稚内港を出て北海道留萌沖でソ連潜水艦に沈められる、小笠原丸の生存者六十二人残り640人は死亡した。大勢の女子供は一人も助からなかった。
 留萌の私の年代に似聞くが(現在はもういないと思います)腕足がない死体が海辺に流れ着く魚雷爆裂で身体がばらばら船から飛び出した人が流れ着いたようです。これはむごい!地獄です!生と死の狭間をくぐって来ました。

 流れ着いた死体の中に手首、腕切り落とされた死体があったそうです船が沈む海に投げ出される。ボートは満杯、海にいる人はボートにしがみつくボートは沈みそうになる、しがみつく腕、手首切ったと思う(地元古老の話現在はもう亡くなっていると思います)まだまだ恐ろしい出来事たくさんあったと思います。稚内に着くまで姉に二度も助けられました。現在あるのも姉のお陰かもしれません。
 稚内港に下りて地元の炊き出し、大豆の握り飯、大豆ごろごろこれは生涯忘れる事はない味です(日時と人数は北海道新聞を参考にしました)

  故郷に帰る
 札幌に着く一番の思いでは狸小路のお風呂あの気持ちの良かったのは最高だった、十日も風呂に入っていない。下着も山市街を出てから木の身そのまま、しらみ(虱)の卵が下着の縫い目にビッシリ列をつくっている、昼間だからお客さんはいない母は洗濯!風呂番は見ないふり(事情分かっていたのだろう)母は凄い、お金を着物の襟に縫い込んで樺太から持ってきている。
 嫌な思いでは、着く所、着く所何回もDDTの散布(虱退治の殺虫剤)頭からかぶせられる、背中から下着の中に吹き込まれた。

 八月二十五日故郷に戻る。泊まる所がない縁戚の家に一時厄介になる。そこえ十二年前養女に行った姉が母を訪ねてきた。母の驚き!母娘泣き抱き合っている、母の泣いた顔始めて見る。別れたままの再会成人した娘を見て安心したと思う、私はぽかんとして美人の姉が一人増えたくらいにしか思わなかった、駅近い所に間借りする。

 一年経ち樺太から引き上げ船が来る様になる。母は毎日仕事を終えると姉(看護婦)が帰ってくるかと駅に行く、汽車が着く誰もいなくなるまで駅のホームを見ている、帰る道トポトポと歩く母の後ろ歩く毎日です。

 私達が樺太の山道歩いていた時は、姉は樺太太平炭鉱病院看護婦だった。八月十六日太平市街にも艦砲射撃、爆撃で屋外に積んだ石炭が燃え灼熱地獄だったそうです。
 病院も危ない、当時は戦争に負けると男は強制労働、女は慰め者になるとの吹聴だった。
 

 看護婦二十三名、山都の誇りを持つ日本女性、慰め者になるくらいなら死のうと婦長命令決心。
 劇薬注射するが死に切れず、手首の血管を切った、自分の手首切れるものではない婦長さん配下の人方が、若い看護婦の血管を切った配下の中に姉がいた、切った手首見せてくれるが、そのときの事はいっさい語らなかった。切っても若い生命力がある血管すぐつながる婦長以下六人死亡十七人息を吹き返す・・・
 (吹き返した若い看護婦の中に、姉が切った人が姉の生涯のサガになる、慰霊祭のたび貴方に切られた)姉と会うたび慰めるが(姉は平成二十六年死望)死んで持って行ったろう。
 その後樺太に抑留ソ連管理下で働く。ソ連は技術者を優遇した、姉は看護婦として優遇。
 妻帯者は優先で還す事になる姉は事務員と仮結婚引き上げる。

 母はこの事知らず、引き上げ船が着くたび駅に行く、子を思う母の姿、真っ赤な夕焼け、乱れ髪のシルエット、駅の手すりに立つ母、岸壁の母の駅版です。姉が帰ってきました、それも孫を連れて初孫、母は嬉しかったに違いない、養子に行った弟も二人.還ってきている、姉弟全部生きて戻っている。
 
 食糧難の時代姉は母を手伝う、農業の街、雑穀卵が豊富にある、姉と私は玉子買いに農家を廻る、集めた玉子を函館の朝市売りに行く、すぐ売れた、帰り米など買って帰る、これは統制違反(闇商売)です。
 
 私は学校を休み家を助けた。その頃はそれが当たり前でした。学校も何もいわなかった。
 姉の旦那様が姉を向えに来た。姉は本州に帰る。母はその夜暗くなっても夕飯お支度しなかった部屋に座ったまま・・・
 働き手が無くなった、女手一つで二人の子供を育てなければならない(私と弟)兄は住み込みで工場で働く(食べるだけ)給料などない(昔の丁稚奉公)当時は終戦直後義務教育は六年生で卒業だった。
 母は姉の玉子買いを受け継いで、私は学校を休んで母を手伝う、学校は母子世帯(当時は保護など無い)休んでも何も言わなかった。お金になる事は何でもやった。ヤマベつり料理屋で高く買ってくれた、学校休んで釣りに行った。

  代 用 食
 終戦後日本は復興、復興だが先ず食べなければならない故郷は
農業の町食べるものは生きるだけのものはある。進駐軍が来る、
子供達はアメリカ兵のジープに群がる英語で書いた缶詰をくれる、

 何が入っているか分からない,今までは敵、アメリカ兵はニコニコ笑いながら一つずつくれる、家にもって帰り母は早速空ける、砂糖だ貴重品、農家からいただいた豆を煮てくれた甘く美味しい。あの時の味は一生忘れない!又進駐軍がくるかと待ちあぐれたが来なかった。米は一般の人にはまったく手に入らなかった。
 燕麦、ひえ(馬鳥の餌)イナキビは良い方、学校から帰るとカボチャ、じゃがいも、手が黄色になった昼の常食だった。

 当時ニシンが獲れたニシンを出刃包丁でつぶし澱粉粉混ぜ団子にしてつくってくれた母にいないときは私の仕事だった。いも、カボチャ団子は常食だった。すいとん色々な野菜を味噌で煮てそこえ麦粉を煉って箸でちぎって鍋に入れ晩のご飯。新制中学に入って入ってから午後から授業が多くなる、弁当を持って行かなければならない、燕麦ひえのご飯にトロロコンブ醤油でまぶし弁当(柳弁当箱、柳で編んだ箱)ご飯ボロボロそれでも美味しく食べた身欠きにしんが入っていると大ご馳走だった。

 正月は白い餅はない、イナキビ餅黄色い、食べれるものは何でも食べた。友人の家が雑穀商遊びに行って、白い餅の雑煮ご馳走になったわが家と雲泥の差だった。友人の家で豆選りを手伝い(豆の等級を上げる仕事)帰り白米のご飯をいただいた我が家の口減らしになったと思う。
 等外の豆を貰って母に煮豆を作ってもらった。砂糖は砂糖大根を煮つめ砂糖水にした。玄米が配給になると一升瓶に玄米をいれ棒でつついで白米にした。

 国民学校が小学校に変わる私の年代・第一回小学校卒業です。卒業して母は「お前も働け」というが新制中学義務教育になったその事を母に教えると途方にくれていた。家事の足しに新聞配達、川魚釣っては料理屋に売った、お金になる事は何でもやった。冬の暖房蒔き切り、ひと冬の分、蒔き切り私の仕事だった六年生から四年間やった。

 中学三年就学旅行に行きたい、お金がない同級生の家が砂利やさん河で砂利を分ける仕事七〜八月丸裸になり小遣いを稼いだ。仕事を終えると同級生のお母さん白米のご飯食べさせてくれたこれは生涯忘れない、同級生は忘れているが美味しかった。
 レストランでご飯を残す人がいると終戦当時白米食べられなかった事教えてやりたい気持ちになる。

  母の好きな人へ続く
 

次ペ-ジに続く
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