戦争と生と死

 戦争の恐ろしさを皆さんに知って戴きたく、私の見た事、聞いた事を載せます。
 昭和二十年八月十一日、私十才樺太恵須取浜市街は
 艦砲射撃、爆撃、焼夷弾、市街は火の海。私達親子は山市街に住んでいました。浜市街の空は真っ赤に染まり燃えている。八月十三日、山市街もソ連の戦闘機の機銃掃射、爆弾投下ここも危険。
 ソ連の飛行機が飛んで来る、私十才怖いもの知らず防空壕に退避するが外ではドッカンと爆弾、ダ、ダッと機銃の音、防空壕の蓋を開け外を覗く、犬が走ると戦闘機それをめがけダ、ダ-機銃掃射、カボチャに穴が開いていた。爆弾の炸裂で建物が吹っ飛び噴煙、子供心に恐ろしさはないが、呆然と見ていた、母に怒られ防空壕に入って丸くなる。

 山に逃げようと母、近所のおじさん達は「早く逃げろ」と怒鳴りながら行く。母は夕方まで姉の帰りを待つ、姉は郵便局(電話課)に勤務、局も機銃掃射、爆撃、弾丸は壁を突き抜け姉は電話交換台にしがみついてたそうです。電話交換手は命令があるまで動けない、憲兵隊の避難命令、命からがら帰る。
 夜遅く起こされ山道を歩く(交通機関は止まりどこえ行くのも徒歩)火の玉が飛んで行く、あとから分かった事だが艦砲射撃の弾丸、よく私達のところに落ちなかったものだ。
 誰もいない農家に泊まる(住民も避難して空家)私は国民学校四年生危険の度合いがわからない。
 私達と同じ避難する人が入ってくる、寝ていられない。女、子供なにされるか分からない、ソ連上陸ここも危ない(着の身そのままリックに非常食(干しご飯、煎り大豆)を背負い朝暗いうち又山道を歩く、姉達は先を行く、私は足に血豆、痛いので母に愚図り困らせる、橋の上にしゃがみ込む、橋の下に赤ちゃんがいる母に知らせる、母は手で私の顔をふさぎ「行こう」っと無言!私は足が痛くて泣きながら着いて行く(今思えば赤ちゃんは死んで捨てられていたのだ)
 足が痛くて道端で休んでいると近所のおばさんが休もうと腰を下ろしたとたん、ソ連の戦闘機ダダ・・っと機銃掃射、逃げるひまもない!おばさんの顔に当たる、おばさんのけぞる、顔は真っ赤だ!
 母は私の手を引っ張り走る、泣きながら後ろを見る、

 おばさんは動かない『おばさん血だらけになっているのに』と思いながら走る。先に行っている姉達と合流、皆無事ホットした母の顔、母の機敏な行動、今でも頭がさがる。
 人影があると撃たれる夜歩く事になる。親にはぐれて泣き叫ぶ子供、子供を呼ぶ親、ゾロゾロと暗い山道歩く、母は帯で私達をつなぎ離れないように歩く。
 海岸に出るが祖父の知人の家で休むがすぐトラックが隣町まで行くのですぐトラックに乗る、乗ってから着くまでは何かにつかまり寝ていたから落とされたら、置いてとけぼりだったようです。

 私達は山道を来たから良かったが海岸沿いを来た人方は、艦砲射撃で人は吹っ飛び地獄そのものだった様です。
 ソ連軍の進駐を阻もうと民間の自衛団を集まっていた0八年八月二十五日のテレビ『霧の火』を見てわかった。
 兄十三才が真岡で義勇兵の徴兵されようとしていた十五〜六十才までの徴兵だった、兄は体格が良い「十五才だから残れの通達、母は『十三才十三才」と叫ぶ懇願、その姿は今でもありあり浮かぶ。

 一般人は(義勇兵)は竹槍、包丁をくくりつけ武器にしてソ連の上陸に備えたそうです。真岡を離れその後真岡は攻撃され0八年八月二十五日のテレビ『霧の火、樺太真岡に散った九人の乙女達、終戦五日後も最北の地は戦場だった!』の惨事、九人の乙女は青酸カリを飲んで自決、看護婦の姉も自決に追い込まれたと思う。
 テレビで見てわかった事は、土壇場で、上に立つ者の一声で人生が変る、同じ電話交換手も恵須取の憲兵は避難命令、真岡は自決上に立つ人柄だと思う。

 私達親子は終戦など知らないでいました。樺太の首都豊原に着く、戦闘機が一機飛んで来る、日本の飛行機かと「ばんざい」?ソ連の偵察機。日本の飛行機飛ぶわけない、皆んな暗い顔。山に疎開が、北海道に行く事になる、ただ逃げるだけ。
 港、大泊に着く完璧に人が黒山だ、船に乗る順番待ちで岸壁に泊まっている、私達も岸壁に泊まる。
 翌日乗船開始、残される人船に乗る人と分けられる、
 
 私達の前から、あと何人と区切り始めた、母は「区切らないで」絶叫!母に願いを聞いてくれたのか、逓信関係は優先、乗船出きる(電話回線、海底埋没船・小笠原丸が急遽引き上げ船に変更)甲板は人人で一杯これが最後の北海道行きだった。
 小笠原丸大泊を発ったのは八月二十一日午後十一時四十五分、1.514人デッキ鈴なりの人、八月二十一日稚内港、母は小樽港に行きたかったが姉が船酔い具合が悪くなり、午前十一時頃稚内に着く、887人が下船、この中に私達が入っていた。
 小笠原丸稚内港を出るが、何という運命この船、北海道留萌沖で、午前四時二十分、乗船者702人がL12ソ連潜水艦に魚雷攻撃で撃沈。841人が死亡、生存者は82人、小笠原丸は大部分は女、子供だった。

 この中に姉の友人、電話交換手、逓信病院などの看護婦などの女性が大勢混じっていた。
 生死を分けた髪の毛ほどの運命差だった。留萌の浜に腕、足がない死体が海辺に流れ着く。魚雷爆裂で体がバラバラ船から放り出された人が流れ着いたようです。
 私達親子生と死の狭間をくぐって来ました、まだまだ戦争の恐ろしさたくさんあります。
 私達は帰って現在があります。これも母の強い生の意気込みでしょう。その母も他界しています、母を誇りにしています。

 留萌沖樺太引き上げ三船殉難、攻撃中止命令その同じ日に終戦直後の1945年八月二十二日、小笠原丸が留萌沖で攻撃され、1700人以上死亡、攻撃したのはソ連潜水艦が確認されたが、背景に背後に戦闘処理をめぐる米ソ対立の激化とスタ−リンの北海道上陸策戦があった事が分かってきた。
 留萌〜釧路以北の北海道北部占領を計画していた。留萌上陸作戦を八月二十四日未明に決行する予定だった。ソ連潜水艦二隻、L12号とL19号、攻撃命令受けていた。両艦は二十二日午前、小樽へ渡航中三隻を発見、日本軍の輸送船と誤認したとみられる。

 小平沖で第二振興丸、午前五時三十分(乗船者3600人)がL19の魚雷攻撃と砲撃で大破、死亡250人怪我100人。続いて午前十時二十分泰東丸がL19の
 
 砲撃で撃沈887人死亡行方不明は1708人に達した。大勢の乳幼児はひとりも助からなかった。色あせた英雄L12号潜水艦は北海道占領策戦が正式に中止され、ウラジオストク基地に帰った、ツエルガンツエフ艦長は武勲と勲章をスタ−リン最高司令官の表彰状を授与された。
 真実が旧ソ連に伝わったのは1980年だった。L18号は帰還途中行方不明になり慰霊碑設計計画が持ち上がっていたが「1708人もの避難民を乗せた日本船を撃沈したL19の慰霊碑など許されない」と猛反発された。L18の副艦長の家族もひっそりと暮らしたそうです。その家族もなくなり潜水艦を知る関係者はいないそうです。戦争とはそういうものです。
 (北海道新聞を参考にしました)


 姉当時二十才、同僚の若い看護婦さんの手記です。
 
 八月二十五日の誓・死線を越えて来た者として、東京・昭島・山本美恵子
 昭和二十年八月十六日(1945年)旧樺太太平洋炭鉱病院に勤務していた時のことです。私は十八才でした、ソ連軍参戦により、十六日は艦砲射撃と空爆で炭鉱の街は灼熱地獄と化し、われわれ看護婦二十三人やむ得ず避難しました。
 長い道程は逃げ隠れの繰り返し疲労も限界に達し、幾度も脱落しそうになりました。避難中に「われわれは包囲された」とのデマが乱れ飛び、最悪の状況下で死を選ぶとの結論に合意し、近くの牧場の奥深くに死に場所を求めました。
 大木のある場所を見つけ、婦長さんの采配で劇薬の注射をしたものの、大勢のため致死量には至らず、切断刀で手首を切られ、まもなく意識失いました。それからどれくらい時間が経過したのか八月の暑い太陽を浴び、あまりの暑さに喉の渇きを覚え、意識が戻りました。くしくも十七人が生存しており、婦長以下六名はすでに絶命。死臭と血生臭いなかで意識回復し、ある者は「水を水を」と目走っていました。私はまだ意識もうろうでしたが、同僚二人で、切られた手首をかばい、血で汚れた水筒を引きずり、四つんばいになって、上空の飛行機を避けながら、ただひたすらに水を求めて草原を徘徊し

 馬か牛の足跡に溜まった水を発見し、同僚と二人で水をすすり合ったのです。
 自公民三党によりPKO法が国民の声を無視して押し切られました。
 戦時中に国民を餓死状態に陷れ、幾多の人々を犠牲にしたのもかかわらず、喉もと過ぎれば暑さ忘れるとのたとえ通り、また戦争の道を逆戻りするのか。次の世代に私達の歩んだ道を二度と踏ませる事のない様にと、死線を越えてきた者としてあえて寄稿致しました。
 (山本美恵子さんの手記です)


 私達が山道を歩いていた頃、姉は樺太太平洋病院勤務(看護婦)

 昭和二十年八月十六日午前二時ソ連艦隊、塘路沖に姿を現し艦砲射撃、太平市街も爆撃で屋外に山と積まれた石炭が燃え灼熱地獄だったそうです。
 炭鉱病院では人々が避難したあとも、高橋婦長以下11人の看護婦が重症患者を神社下の防空壕に移し、看護していた。「逃げたほうがいい!ここまで看護してもらえたら、患者冥利に尽きる」と患者方々が避難を勧める。十七日全員が避難した事を知った高橋婦長は若い看護婦達を非難する事を決意、患者に薬を渡し、別れを告げ防空壕を出て、上恵須取武道沢に向った、獣道の難路である。
 喘ぎながらの逃避行、女性には困難で何人かの男性に追い越されてしまった。その中の一人「何で今頃女の癖してウロウロしてるんだ。そこまでソ連軍が追って来ている。女の足じゃとても逃げおせるもんじゃない」と荒い言葉を投げつけ、足早に茂みを掻き分け消えて行った。
 誰も彼も急転直下の惨劇に動転し気持ちが荒ぶれ、すさみきっているのだろう、その矛盾は女に向かれていた。優しさを失った心無い男の捨てせりふが、悲劇を生み出す事になってしまった。
 貞操観念を徹底的に叩き込まれて育った世代の女性達である。ソ連軍につかまって辱め受けるなら、自らの手で命をと即座に全員の決意は固まった。東の空を仰いで拝み、静かに君が代を斎唱したあと、大きな木の根元に車座になり、石川主任看護婦が最後の時の場合に

 持っていた青酸カリを一服ずつ手渡した。
 「私は避難時の判断を誤ったお陰で若いあなた達を死に追いやりことにしまった。許して下さい」と高橋婦長は一人ずつ詫びた後、服毒し、手首の静脈を切った。
 全員がそれに見習ったが中の一人が死に切れず、這いずって近くの佐野造材半場に苦しみのたうちながら転がり込んだ。看護婦達の集団自決を知った飯場の人達が窮境現場に駆けつけたが、十名中七名が絶命していた。
 七名の遺体は、飯場の人達の手で棺に納められ葬られた。
 土まんじゅうが七つ、俗名を書き込んだ白木の墓標の前には草花が供えられた。
 
 茶色の文字は雑誌に書いていたのをここに掲載しました。 昭和二十年の事です、生き残っている人も少ないと思います。
 姉も現在平成二十五年八十八才、手首切った傷跡残っています、姉の生涯の悔恨です。 姉の心の傷跡、節々の話から分かるが、若い看護婦手首切れない、切ってやった!
 戦後太平病院の慰霊祭があった(現在はありません)若い看護婦だった人が姉に「私は死にたくなかった」と言われしょげていた!当時切羽迫っていた婦長命令仕方がない・・・
 その姉も今は恍惚の人です。
 
 
  
         

 
inserted by FC2 system