小樽〜積丹〜倶知安〜中山峠 |
1.24軒
24軒も当時は荒れた原野、そこへ山鼻地方から農民が移り住んできたのが、明治4年(1817)、 その時の戸数が24軒だったことから、この地名が付いた。隣町に,8軒,12軒,などの地名がある。
2.琴似町(コツネイ)凹んでいる所
屯田兵制度が明治8年にでき琴似は最初の兵村になる。
国指定文化財,琴似屯田兵村兵屋跡がある。 当時農村だった琴似に200人余りの屯田兵が入植、開拓。
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3.拓北農兵隊
終戦近い昭和20年3月10日、東京は大空襲で被害を受けた、さらに5月25日まで連日のように爆撃が続き東京は焼土と 化した。
本土決戦のうわさが流れた6月、東京圏の新聞に拓北農兵隊の募集公告がでる。 昭和21年7月、東京都からの移民が石狩平野に入埴。
東京都足立区から拓北農兵隊、琴似隊が21戸、開拓入る。
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4.手稲山(テイネテ)湿地帯 標高 1024m
昭和47年2月、第11回冬季オリピック大会が行なわれた。
世界の35ヵ国からたくさんの選手が参加し。 回転、大回転、リュ−ジュ、ボブスレ、が行なわれた。
☆ 手稲に、昭和20年7月、東京都杉並区から拓北農兵隊、手稲隊、23戸開拓に入る。
☆ 山口西瓜、甘味 皮がうすくサッパリとした味・このあたりの名産。
5.銭 函
明治のはじめ、北への開発でこの地は拠点となった。
◇人夫に支払う賃金を札幌まで馬で運ぶ、金庫【銭箱】がこの地に置かれていた! ◇明治4年5月、にしん大漁およそ3、400万トン、大繁昌お金が入る。 入ったお金を入れる箱を作って貯えた! どちらが銭函の云われでしょうか?銭函は鰊がとれなくなり、留萌、方面で少しとれるていどです。 とり過ぎ又、川
海、汚染されニシンの産卵する場所がなくなった。
6.張 碓(ハル・ウシ)食料の多い所
昔は、山には鹿、海には魚貝類がとれて食料が豊富だった。
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7.小 樽 観 光 (オタルナイ)砂の多い沢
慶長年間
1600年に小樽内漁場開いたのが始まり。 その後、オタルナイに魚を求めて和人が年ごとに増え村となった。
安政3年開拓がすすめられ、小樽の移民も増加し、この人達の漁業によって発展し、明治22年特別輸出港に指定される。 全盛期の昭和初期は北のウオ−ル街と呼ばれた小樽は今運河のまち、石造りの建物が似合うまちとして、発展している。 独特なレトロ雰囲気が観光の魅力。
貿易が年と共にのび港が開発され、明治41年に南防波堤が完成大正10年に北防波堤が完成しました。
大正3年〜11年運河工事、小樽運河は海を埋め立て運河にし、それに併せて石造りの倉庫も造った。
大正から昭和初期にかけて、小樽は全盛時代を迎え道内の海産物の7割り小樽取引され、十勝で収穫した豆類は 小樽港からヨーロッパまで輸出されていた。
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☆小樽運河
札幌以上に繁栄した商都・運河沿いには当時の面影を残す石造りの倉庫群。 軟石造倉庫は、農・海産物を一時保管するのに今の様に蔵技術がない時代、 この倉庫は涼しく湿度が一定しているので、この倉庫を使った。
港に着いた荷を陸揚げする場は、いつも勇ましい掛け声が飛び交い、人や 荷馬車の絶えず動いていて塩、雑穀に石油、石炭、木材、小樽の繁栄は港と 集約されていました。 小樽港の埠頭が整備され大型船が埠頭に横付け、運河は使われなくなり、 運河を埋め立てて道路にする事に決まったが、運河を全長1140m残す事に なった、周辺の倉庫を改造して繁栄している。 |
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☆小樽市博物館・運河プラザ (旧小樽倉庫)明治26年北海道初の営業倉庫として建設された石造倉庫。 博物館と観光・物産プラザとして利用されている。
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☆銀鱗荘
明治6年、鰊漁網元の邸宅として建てられ、現在は高級料亭旅館。
純和風の繊細な宮大工の設計施工、優美さが特徴。 もとは余市に建っていたが、昭和13年に移築、14年に竣工。
一攫千金の夢を実現させた魚場親方豪華な生活を 偲ぶ望楼付本邸です。
宿泊料 37,950〜105,150円 価値のある高級料亭旅館です。
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☆石原裕次郎記念館
平成3年開館裕次郎・少年時代小樽で過ごした。
裕次郎健在のころの遺品を展示、車、洋服、帽子、免許証など々!裕次郎の映画、売店は裕次郎グウッツ販売。
裕次郎がのったヨットなど展示。 |
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☆北一ガラス
(ニシン粕の倉庫)明治24年
ニシン粕は、米の肥料に新潟方面の米作地では、なくてはならない物でした。
当時裏はすぐ海だった、 倉庫の間の通路にレールが敷かれている、荷の積み下ろしにトロッコを使った。 日用品、アート、オブジェなどさまざまなガラス製品を販売。
石油ランプ、オリジナル製品を扱う3号館、芸術製品をそろえたクリスタル館などがある。
☆オルゴール堂
(米の倉庫)明治45年
北海道の米は新潟方面から来たようです。
北海道の米作は無理なので米は貴重なものでした。 小樽は瓦の屋根が多くある、これも新潟の産地から取り寄せた物です。
全国最大規模のオルゴール専門店、約3,000種類1万点展示 販売。
☆岩永時計店 明治29年
屋根のシャチホコ、当時の小樽商人の繁栄ぶりが、うかがえます。
☆さくら銀行
(旧三井銀行 昭和12年)
☆中央バス本社 (三菱ビル、三菱銀行、三菱商事)あたりが昭和初期小樽の金融街で、第一銀行、拓銀三井銀行と大銀行や商社の 店が立ち並び「北のウオール街」と呼ばれた。
昭和初期の商社の月給は45円、教師・35円。
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☆日本銀行小樽支店
明治45年〔1912〕総工費は30万円余、今の金額で10億円位
ルネサンス風、当時は最高の建築でした。 東京駅など手がけた辰野金吾氏が設計、小樽市の歴史的建造物に指定されている。
☆旭展望台 小樽を一望できる。 小林多喜二文学碑がある。
☆天狗山展望台 (標高532m) 山頂に天狗の館がある。 天狗のお面など資料700点。ジャンプ台・小樽シャンッエ・50m級のトレ−ニング用。
☆
高島は早く開けた所で600年前からアイヌ人に混ざって和人が漁業を営んで住んでいたと伝えられている。
☆旧日本郵船(株)小樽支店
近世ヨ−ロッパア復興様式石造り二階建て建築(明治39年建築)
☆小樽交通記念館
明治13年小樽〜札幌間に鉄道が開通、鉄道の発祥地。手宮機関庫は長い歴史を保存。
静号、クラシックなSL、 除雪車、客車、貨物車、展示。
明治、大正、昭和の当時の写真・資料など展示!
☆手宮洞窟保存館
慶応2年、朝里地区のニシン番屋の建設に来ていた、石工の長兵衛によって発見。 手宮の崖は小樽軟石が露出している所で、建築用の石を捜してい途中に偶然、洞窟内の、 人文字やさまざまな文様が刻まれていることを発見。 この彫刻は明治11年、榎本武揚によって学会に紹介され、地質学者などの学術的な観察と報告がされた。 また開拓使などによって調査が行なわている。 縄文時代に刻まれた彫刻壁面を、
洞窟ごと、カプセルで覆って保存している。
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☆鰊 御
殿
明治30年に網元田中福松氏によって、7年の歳月をかけ泊村に建てる。
その後昭和33年現在地に移築され民家として、昭和35年北海道有形文化財指定。 用材は北海道の木、たも(楡)、栓、トド松等、東北地方から取り寄せた桧(ヒノキ)も使われている。 親方の住宅兼、作業場を鰊御殿と呼ぶようになった。 漁師達は2〜3ヵ月の漁で1年の生計をたて、 網元たちは豪壮な鰊御殿を構えた。 建築当時をそのまま残しニシン漁華やかな時代を偲ぶ建物です。 日和灯台・赤い屋根、鰊御殿
遊園地・祝津港
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☆祝
津(シヨコトツ)山ねぎのある所。
赤岩展望台に追分記念碑がある。 「忍路、高島およびもないがせめて歌棄・磯谷まで」と、歌われている。
☆小樽水族館 東洋有数のスケールを誇る水族館。
約350種3万点が飼育されているトドやイルカの ダイビングは人気。
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☆旧青山別邸
大正7〜13年、17才の青山政恵、山形県の富豪本間邸に魅せられて建てたと 云われている。建築材は本州から取り寄せ、杉、けやき、桧(ヒノキ)現在
この様な大木の材木は手に入らない様です。ふすまの絵・書・は政恵は 日参して指揮をしたと云われる。 「牡丹」13枚 「八仙人」、6枚 「秋の七草」、8枚の書が語りかける。
当時の一流絵師、書家の作品がふすまに、えがかれている。 当時の鰊漁場で栄えた、歴史を語る美術品と、いえる豪邸です。
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☆毛利 衛、
宇宙飛行士・平成4年9月、スペースシャトルに初搭乗した。
平成12年2月11日・2度目のスペースシャトル「エンデバー」に搭乗、高度233km地球周回軌道に入った、 52才で再び宇宙に飛び立つ夢をかなえた。地表の詳細な立体地形図を作成することが主な任務。
☆ 旧下ヨイチ運上家
アイヌ民族の交易所、役人・旅人の宿屋として使われた建物。
生活用品や人形を置き当時の様子を伝えている。(国重要文化財)
7・塩 谷(シヨ−ヤ)岩礁 転化したもの
8・忍
路(オショロ又はオソル)尻 この辺の海岸は、あわびウニなどがとれる。
9・蘭
島(ランオシマクナイ)下り坂のうしろにある川。昔、虻田地方のアイヌ人が 山を越えて入り込んだ事から付けられた。
10・大黒岩・夫婦岩(めおと岩)ともいう、 下部が海蝕で細くなり
いつ倒れるか興味の岩。
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余市町(イョテイーン又はイオチ)蛇のいるところ
明治維新、会津藩士200戸入植。明治7年、黒田長官の顧問 ケプロンが米国から持ち帰った林檎の苗 7本づつ農家に配ったのが
今の林檎の産地になっている。
☆ニッカウイスキー工場見学、
ウイスキーの歴史、製造工程、創業者、竹鶴政孝と同社の歩みの紹介。 道内唯一、原酒を造るニッカウイスキー工場。
30棟の貯蔵庫5万をこす樽が横積みされている。 古いものは34年前の原酒が入っている。
ウイスキーの熟成を助けるため、貯蔵庫はレンガなどで造られ床はむき出しの土間。
置き場所や積み上げ違うだけで、樽ごと違う味になる。 ウイスキーが出荷するまで最低五年の熟成期間がいる。ウイスキーの消費量は70年代、3万キロリットル、98年度は、 10、250キロリットル
まで落ち込んだ。 生産調整しながら、将来の需要にこたえられるよう、仕込みは欠かせない。
☆竹鶴リタ (ジェシ−・ロベルタ・カウン)愛称リタ
スッコトランドの医師の家に生れる。竹鶴政孝ウイスキ−作りを学ぶため留学中リタと恋仲になり結婚する。
スコットランドと気候が似た余市をえらび1934年大日本果汁を(現ニッカウイスキ−)創立するリタは着物を 着こなし日本食の料理、中でも漬物塩辛などは最高だったそうです。 1961年1月、64才で亡くなる、工場をみおろす丘に、愛する政孝と共に眠っている。
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11・セタカムイ岩
(犬の神)上を向いて遠吠えしている様な岩。
犬が主人を求めて
吠えながら岩になったという伝説。
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・蝋燭岩・男の観音様に似ているので、観音岩ともいう。あわび、 ウニ、がとれる。
12・古 平(フルレピラ)赤い崖、赤土山。
漁業の町、古平漁港がある。
マグロが少ないが取れる。
13・美
国(ポクニ)が由来と云われているが意味がはっきりしていない。 (ビクニ)にすると岩の陰。ソーラン節の発祥地、8月には 「お神威ソーラン際」が行なわれる。 ソーラン節のソーラン、ソーラン、の 掛け声は
「そらそら、早くしてくれ」という さいそくの言葉で
「ハイ、ハイ」は、それに対する答え!幻の魚となったニシンの全盛期が よみがえる行事。 釣り場では最高
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14・積
丹(シャック・コタン)夏の部落
昭和47年、美国、入舸、余別地区が海中公園に指定。 那須火山帯に属する。 余別岳 1298m、積丹岳
1255mを中心に120q半島海岸線一帯は海蝕性の断崖絶壁がつらなり、変化に富んでいる。
15・余
別 アイヌは(レオプナイ)と呼んでいた[三股の川]
(ヨペツ)の地名の出どころは、わからない。
16・神 威
岬
アイヌの悲恋伝説の残る神威岬「チャレンカの小道」チャレンカとは源義経が恋におちたアイヌの娘の名前。
神威岩高さ40m積丹半島きっての景勝地周辺の断崖の上には、6月下旬エゾカンゾウが咲く。
かって岬は、女人禁制で江差追分に「未練あるのか御神威様よ、なぜに女の足とめる」とある。 (灯台先まで片道約20分かかる)
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20・泊 村
昔は、この辺はニシンがたくさん取れた、ニシン場のあった所です。 小樽祝津にある、ニシン御殿はこの町にあったものです。 ここには、原子力発電所がある。
21・発
足(ハッタリ)アイヌ語で(カムイハッタラペツ)
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20・泊 村
昔は、この辺はニシンがたくさん取れた、ニシン場のあった所です。 小樽祝津にある、ニシン御殿はこの町にあったものです。 ここには、原子力発電所がある。
21・発
足(ハッタリ)アイヌ語で(カムイハッタラペツ)
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☆ ニセコアンヌプリ(そそり立つ絶壁) 1309m
☆ 羊蹄山(蝦夷富士)
(マッカリヌプリ)1893m
富士山と同じコニーデ円すい型火山。〔川がとりまいている意味〕尻別川が洋蹄山の 山麓をとりまいて流れている事からアイヌの人達は(マッカリヌプリ)と呼んでいた。 木の無い所の高山植物は、260余種、
天然記念物として保護されている。 ふもとでは銘水が湧き出している。
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ジャガイモの花は種類によって色が違う、白(紅丸系)紫(男爵系)かれんな花は、北海道の夏の風景を彩っている。
男爵薯の父$田龍吉(1856-1951)は土佐藩郷士で、明治39年函館ドッグの専務取締役に就任した。 優れた農業と、七飯村に農場を開いた。
幾多の野菜、果樹を欧米から輸入し、管理人らと一緒に自ら試験栽培した。 多くの種薯の中に米国産の「アイリッシュウ・コプラ」
北国の風土に適したイモだということが分った。 このイモが近所の農家に渡り栽培が広がった。 当時の七飯村農会が、川田の爵位から「男爵」と名付けた。 川田龍吉は日本初のオ−ナ−ドライバ−でもある。
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24・喜 茂 別(キムオペツ) 山奥から流れる川
特産物の、アスパラ缶詰工場がある。
☆本願寺街道 |
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国道の横に「北門開拓」の字の上に手を合わせ立っている。 現如上人之像、 明治2年、現如上人19才父親の代りに、エゾ地に新道開削事業責任者として、 本州各地から参加した、門徒衆とよばれる大勢の信者を引き連れてエゾ地に来た。
明治政府が発した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)令のもとに、浄土真宗の 東本願寺だけが、エゾ地開削を命じられた。
理由は、幕末の動乱時に 薩長派とされた。 西本願寺に対し、家康ゆかりの東本願寺が左幕派と見られていた。 維新後の宗派維持を目的にした、せっぱ詰まった門徒集団の奉仕活動だった。 本願寺街道は有珠から洞爺湖、留寿都、喜茂別、道なき道を川筋に中山峠に 至る、峠から豊平川を下り平岸村南端まで、神下の平岸街道脇 「本願寺街道終点」の碑がある。
途中の橋が113ヵ所の難工事でした。
長い歴史を有する大宗教団体なので、第三者には東西関係の奥は伺い知れない。 |
ドライブインの名物あげいも、喜茂別町の職員
(伊藤ミネさん)が考安した、あげいものルーツです。 特許をとらなかった為、全道各地の観光地で売っている。
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25・定 山
渓
慶応2年(1866)備前出身の僧(美泉定山、みいずみじょうざん)がこの地に入り私設湯治場を造ったのが、 定山渓温泉の始まり。
明治4年札幌〜虻田を東本願寺街道の開削の時、官営の温泉場を造る管理「湯守」に 定山が任命された。 時の参議(福島種臣)が湯守としての定山を讃へ「定山渓」の名をつけた。
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温泉旅館、ホテル約30軒のほか、会社の保養所が約40軒ある。
湯は川沿いの随所から湧きだし、60〜80度、無色透明の弱食塩泉、ラジウム泉、鉄鉱泉(札幌市の奥座敷) 定山渓のシンボル
「かっぱ」の云われは、子供達が元気に豊平川で泳ぐ姿から「かっぱ」が生まれたとも云われている。
120年余の歴史を誇っています。平成16年2月17日北海道新聞から
定山渓温泉は、定山坊が温泉を見つけたのが 始まりのように言われている様だが、定山坊に温泉がある事を教えたのはアイヌ人達でした。
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上記のように宣伝されていますがこれは定山渓温泉を売り出すための,すべかもしれませんが、アイヌの人々が 昔から利用していた温泉の由緒ある歴史を抹消し、美泉定山(みいずみじょうざん)が定山渓温泉で果たした 湯守としての功績をゆがめるものだと思いますと!南区在住の小林久公(ひさとも)さんが言っている。 |
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