北海道観光案内
  北海道の歴史
 地のうつりかわり
15〜24万年前、北海道は大陸と樺太、北海道、本州、朝鮮半島、大陸につながり日本海がみづうみ、だった。 
大陸に住んでいた人や動物たちは、北から南から北海道に来ていた。
(石器時代)マンモス象、ナウマン象の化石が発見されている。
万年前から、地球は温暖 化され氷河がとけ、マンモス象、ナウマン象は寒い域に移動しました。
海水がふえ、低い陸地は海となり、北海道の誕生。
 
 縄文時代

8〜9,000年ぐらい前の、渡島地方の南茅部で土器、たて穴住居などの遺蹟が発見れている。
美々貝塚もそのころの時期です。 
☆ ストーンサークル(お墓)3〜4,000年ぐらい前の遺蹟として北海道全域で発見されている。
小樽の三笠山、余市の西崎山、斜里の環状土垣もその一つです。
 
 弥生時代 

鉄器を使いはじめる。 中国やシベリヤで発達していた鉄の文化が日本に入り、それが北海道に伝わった。 
このころから道内の各地にアイヌが住みつき、魚やけものをとる生活をおくる。
 
 奈良時代
 
このころ擦文文化へと代わる。1,200年前、オホーツク文化があらわれる。(網走、モヨロ貝塚)
☆ 日本書紀に西暦659年に、阿部の比羅夫が後方羊蹄
(シリヘシ)に政庁を置いたと記されている。 ニセコ比羅夫はここからきている。
羊蹄山も松浦武四郎がエゾ地調査の時、後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けたが文字から読みにくい、
それ故か文字どうり「ようていざん」に呼ばれるようになりそれが正式な名称になっている。
アイヌ名は(マッカリヌプリ)

 平安時代
西暦875年、北海道のアイヌが秋田地方をおそう。
西暦878年、秋田(出羽の国)のアイヌがそむく。北海道のアイヌ、朝廷に味方する。
 
 鎌倉時代
1235年、夜盗、強盗などをエゾ島に流すことを命ずる。1330年、このころから和人の移住がある。
 
 室町時代 道南十二舘
1456年、道南に住みついた和人のなかから、舘を築き近くをおさめる人があらわれる。
 安土桃山時代
1590年、蠣崎慶広が豊臣秀吉からエゾ島主としてみとめられる。1599年、蠣崎慶広が松前と姓をあらためる。
地名、アイヌ語からとった。 (マックオマナイ)

 
 江戸時代

1604年、蠣崎慶広が徳川家康に会い、エゾ島主としてみとめられる。 
1690年、このころから、ニシン粕が肥料として本州で広く使われるようになり、取り引きの量がめだって多くなる。
江戸時代は、米のとれ高で藩の大きさをあらわしていた。
松前藩は米がとれないために、エゾ島主だけでした。五代将軍綱吉のとき、大名として1万石以上に準ずるとされ、
参勤交代も江戸から遠かったので、3年に1度でよく、のちには6年に1度だけになりました。
 
 
1457年、武田信広がコシャマインと戦う。
アイヌの少年が和人の鍛冶屋にマキリ(小刀)を造ってくれるように頼みました。
出来上がったマキリを見て「できが悪いのに値段が高い」と、もんくをいった。怒った鍛冶屋、
そのマキリで少年を殺してしまった。 
長い間の和人に対する不満が、この出来事をきっかけに〃爆発〃酋長コシャマイン和人に攻撃した。
箱館方面の和人の舘は襲われ、
 
 たくさんの和人が殺された、花沢の舘主、蠣崎季繁(すえしげ)の所に武士武田信広が身をよせていた。
勇気があって、弓の達人、コシャマイン親子の胸を射ぬき大刀をふるってアイヌ切りすて、けちらした、
この戦いのあと、蠣崎氏の養子になり蠣崎の姓を名のる。
1494年、64才で死去、その子孫は代々すぐれた人物がでて松前藩の土台をつくりました。


【幕府、蝦夷地に調査団を送る。(探検家)】
 松浦武四郎
1845年、東蝦夷地をしらべる。 阿寒、屈斜路、摩周湖方面もくわしく調べている。
摩周湖の野営の洞穴も発見されている。松浦武四郎の考えのもとに北海道開拓が始まる。
 近藤重蔵
1798年、蝦夷地調査探険、日高地方のアイヌに粟、ヒエ、の作り方を教えている
 
 間宮林蔵 (1775〜1844年)
1799年、幕府の命で蝦夷地に20年以上も滞在し、蝦夷地、千島、樺太の測量にあたった。
幕府はロシアの南下に領土の保全に躍起になっていた。蝦夷地の大部分は未踏の地、樺太の北が大陸か島なのか
定かではなかった。1809年、間宮海峡を発見する。 間宮林蔵は伊能忠敬を師と仰ぎ、幕府きっての測量技師だった。 
 測量機器がない時代、精密な地図の作成おどろくものがある。徒歩で3歩1間、誤差を星で計り修正、刀は竹光、
羅針盤を狂わせるからだ。オランダのシーボルトも、エゾ地を調査していた。シーボルトは林蔵の樺太の地図を
複製し、アイヌ、和人の生活用具など、文化遺産、蠣崎波饗の夷酋列像の絵など収集をしていた

  最上徳内
1785年、エトロフにロシア人が入っているのを聞いて、厚岸からエトロフに渡りアイヌに通訳を頼み、
ロシア人 に「この土地は日本の領土だ」といって、ロシア人を追い返した。
千島を調べて守りをかためなければと考え、エトロフ、クナシリ、ウルップトウ、樺太と、
前後8回調査し幕府に報告した。


 伊能忠敬・1800年、エゾ地の東海岸を測量する。

蠣崎波饗
明和元年生まれる。寛政元年クナシリに於いてアイヌの反乱が
合った、松前藩について反乱鎮圧に一役かったアイヌの酋長達の
像を描いた。文政9年(1826)に没する63才。
描いた絵は松前に残されているがか
り外国人に持ち去られている。

アッケシ酋長イコトイの図
幕府は、シーボルトは医者であるのに、行動に不信をいだき、
日本から出るように伝えた。
収集した物品は、ほどんと オランダに持ち去れている。
林蔵の樺太の地図(複製)が世界地図にのるようになった。
当時の地図には、mamiya setoとなっている。 
シーボルトに地図を持ち去られていなければ、間宮の名は
世界地図にのらなかったかもしれない、当時日本は鎖国だった。 
その後、林蔵は幕府から高禄で召し抱えられ、林蔵は一生独身で
過ごしたようです。親どうし話合いの許婚がいたが、家に帰った
時には20年もたっている。許婚は亡くなっていました。 
晩年、林蔵の身のまわりを 世話をする女性がいたそうです。 
  平成14年9月12日 北海道新聞
林蔵は文化10年(1813)上川のタナシ(現・当麻スカイパ−ク付近)でアイヌ女性アシメノコを見そめ、翌年11年に
娘ニヌシマツが生れた。子孫の、(間見谷 喜昭)さん(72)が 林蔵の5代目に当ることがわかった。
アイヌ民族には 「アイヌヌプリ」といって、親や身内のことは語らないこともあり、真相は長く不明だった。

《北 海 道 開 拓 使 》
 鍋島直正
エゾ地開拓は、佐賀藩主、正直が若い頃からもっていた夢でした。「エゾ地のような未開の土地に、人口の多い
九州方面の人々を移し、開拓すれば
 北の守りは楽に出来るだろう」と直正は、エゾ地を部下に調査させていた。
直正はエゾ地開拓を希望していた。 明治政府は、エゾ地開拓を進めるために、(1869年) 明治2年7月、東京に
開拓使という役所をつくる。
 開拓使長官に鍋島直正がなる。長官を助けるための判官に、島義勇、
松浦武四郎岩村通俊、 松村十朗、がなった。 北海道を11の国にし86の郡をおくことになり地方の名を決めた。

正直は、このとき、56才、歳をとっていた事と、病弱なことから、一度も北海道に訪れることもなく1ヵ月
あまりで長官を辞める事になった。 辞める前日、明治2年8月15日エゾ地にかわる新しい名としては「北加伊道」が
選ばれ、さらに検討して「北海道」になった。 この日、明治2年8月15日が北海道の記念日になる。
 



村通俊判官(土佐藩士)
島判官の跡を受け継いで(1871年) 明治4年の春、街づくりを始めました。 北4条の開拓使仮庁舎を中心に、
役所、病院、倉、橋、をかけたりして、まちづくりを進めた。 
移って来た人には、お金を貸して家を建てさせ、1年のうちに、粗末ながら街のかたちが出来た。
そのころ草小屋が多かったので、火事になると大火事になる心配があった。
岩村判官は、開拓使の草小屋を見せしめに焼きはらった、その時 岩村判官は、「御用火事」の旗をたて
「ほかの草小屋も焼くぞ」とおどろかした、人々はびっくりして次の日から、柾ぶき屋根に立て替えたので、
街は見違える様に良くなったと言います。
 
 榎本 武揚
様式海軍学を習得するため26才でオランダに留学し、5年後慶応3年(1867)日本に回航される新造の開陽丸と供に
帰国。 幕府の軍艦奉行となり、戊辰戦争では開陽丸に乗り込み、幕府艦隊を率いて北海道へ。 
開陽丸座礁後、五稜郭にたてこもるが官軍に降伏。 釈放後も政治家として幅広く活躍。 明治41年没。
 
 東久世 通禧(ひがしくせ みちとみ)
       
正直が辞めたあと、通禧が二代目開拓使長官になった。 北海道をおさめる計画をたて、さっそく箱館に来た。
このとき箱館を(函館)に改める。  
石狩に北海道全体をおさめる所(札幌本府)をつくる、こうして北海道の開発が始まった。

 鉱業 ベンジャミン・ライマン           
明治5年11月、日本に来る。 広い知識を持ち、経験をつんだ36才のときでした。 
明治6年から3・年間、助士ヘンリームンローと、日本人の生徒13人と北海道の鉱物の広がりや炭鉱を開く
仕事にあたった。炭田調査はとくに調べた。石炭のほかに、金、鉄、マンガン、銅、鉛、亜鉛、硫黄、石油、
建築の石材、水力、といった資源に目をつけ、その外温泉の利用なども考えた。  
 生徒13人はのちライマンの助手になり、 ライマンとムンローから、数学、物理学測量学、製図学、地質学、
鉱物学など厳しく教えられた。 この人達は、鉱山局の役人、鉱業 会社に入り日本の鉱業のためにつくす。 
とくに(坂市太郎)は明治21年、大夕張炭田を発見、 鉱業だけでなく開拓のしくみ、移民のための設備、
北海道のために考えて、それを黒田長官に 提案して自分の意見をのべた。
 



 黒田清隆
 
九州鹿児島、身分の低い武士の家に生れ、下級武士の力によって成し遂げられたと云われる治維新の
動乱のなかで、名も富もないくらしから身を起こした代表的な人物の一人といえるでしよう。
明治2年春、五稜郭にたてこもる、幕府軍榎本武揚らと政府軍の戦いがはじまった。 
 清隆は榎本に降服をすすめ、函館のまちが戦火になるのをすくった。 
また、榎本はこれからの日本に必要な人物と罪を許してもらえるよう新政府に懇願、罪を許さ開拓使の
役人として、清隆のもとで働いた、明治3年5月、開拓次官になる。
4年1月、留学生をつれてアメリカに渡り清隆はケプロン、クラーク、ライマン、ダン、クロフォードら
アメリカ人、その外、ロシア人、清国人も招きました。 
(黒田清隆32才の時)招き入れた人は 76人になった。 
明治7年、黒田清隆開拓使長官になる、のち首相になる。

 
島 義勇判官
文政5年(1822)佐賀藩士の長男として生れ、幕末に育った。 蝦夷地に関心を持ち蝦夷地を視察(隠密)した。
札幌本府の建設を受持ったのが開拓判官島義勇(42歳)明治2年10月、部下と大工や人夫をつれて、銭箱に
着き、札幌の土地の調査色々な準備をした。 開拓判官島義勇は、11月に札幌に入り、明治天皇の勅命により、
開拓三神、御神体を背負い「札幌神社」として円山(コタンベツ)の地に鎮座。  
 コタンベツの丘に上って街づくりを計画したと云われている。 大通り西4丁目に役所を建てたが、
(仮小屋、事務所、粗末な物)もう白い雪につつまれていた。 
「四方にのびる大きな都を思いきって建設を」と計画した、大通りの北側には、色々な役所を置き、
南側には商店や住宅を造ろうというものでした。
工事は、12月なかから始まった、北風、雪、札幌〜銭箱の道づくりも雪のなか、冬の工事のため、
たくさんのお金が掛り1年分の予算を3ヵ月で使ってしまった。

こんな事から、島判官は3ヵ月でやめさせられ、明治3年、札幌のまちづくりは、中止した。
その後侍従、秋田県権令(知事)など歴任後、明治7年、佐賀の乱に政府軍と戦いに敗れ首謀者として
処刑されている。(53歳)北海道神宮境内に銅像がある。

☆ 神宮の桜
島 義勇を師と仰ぐ人達が供養として札幌神社の境内に、島判官の従者の福玉仙吉によって、桜の木が150本
献埴されたのがはじまりとなり、今日、境内を飾る桜の数およそ1200から1400本になった。 
☆ 義勇は京都の思いを札幌に描いたと云われている。
碁盤の目、地名には円山、鴨々川、伏見など京都の地名がたくさんある。 

 
 北海道農業 エドウィン・ダン

ケプロンは、家畜を育て農業の指導する、優れた人をと、才能のあるダンに目をつけ、何度も日本行きを進めた。
開拓使がケプロンを通して買付けたダンの牛のほか、カナダから牛20頭、めん羊100頭、ダンは日本に運ぶ。 
今の時代と違い当時は家畜の輸送は大変だった様です。旅の間に子牛が生まれ数も増えていた。 
ダンは函館の七重に家畜を移す事を命じられ、明治8年、始めて北海道の土を踏みました七重で
日本女性(つる)と結婚し、一生日本に住む事を決心する。 
 札幌へ来てから、新しいアメリカ式の牧場、家畜小屋、農具や機械を注文したり、家畜の病気の治し方、
飼料になる作物の作り方、採り入れ方を実際に指導、監督をした。農業のすべてにわたって教えました。
“北海道農業の父といわれた”
 
 
 鉄道・ジョゼフ・クロフォード

クロフォード、アメリカで鉄道会社の監督ほかに炭鉱の技師もしていた。 
ライマンは、幌内の石炭を調べた時、鉄道を敷く必要があると、ケプロンに伝え小樽〜幌内まで崖が多く
ケプロンは、開拓使に早く鉄道を敷くようにすすめた。
とても線路を敷けそうもない開拓使が困っている時、招かれたのが、クロフォド石炭を運びだす
鉄道をつくるための指導者と選ばれた。明治12年、北海道に来た時36才でした。

 小樽のほうから工事をはじめた。(1880年) 明治13年1月の事でした。
14年11月手宮〜札幌間に日本で3番目の鉄道が完成。 今では考えられない早さで工事が進んだ理由は、働いた
人達が、クロフォドを尊敬し、協力したからだと云われている。 クロフォドの人柄を良くあらわしている。
 小樽〜幌内までの完成は(1882) 明治15年11月の事でした。この年で開拓使の時代は終りとなった。


 
《北 海 道 庁 》
 新渡部 稲造
新渡部稲造は五千円札にのっているが、稲造の功績、名は知られていない。
文久2年(1862)盛岡生まれ、お祖父さんが青森県の開拓指導者、稲造にも開拓の精神があったのでしよう。
東京外国語学校を出てから農業を知ろうと札幌農学校に入学、卒業後、さ らに東京大学で勉強し。 
アメリカやドイツにも留学する。日本に帰ってきて札幌農学校の先生になり。
将来の北海道開拓の指導者を育てることになりました。 

☆ 遠友夜学校
当時はお金持ちの子供しか学校に行けなかった。  稲造はまづしい人も教育と札幌豊平川のそばに夜学校を
つくった。 「朋あり遠方より来る」中国の孔子のことばを取って「遠友夜学校」とつけた。 週2回〜3回の
学校でした。歳の違う色々な人がいて暗いランプの下で、みんなと一緒に苦労を忘れて教える。
 明治30年(1897)35才稲造は体を悪くして札幌を去る。
 その後も学校は続けられて校舎も改築され、150人を越す生徒を教えることが出来るようになった。 
学校は昭和19年(1944)まで続き、太平洋戦争が終わりに近づき世の中が厳し くなりその歴史を閉じた。
しかし千人以上の卒業生を送りだし まづしい多くの人に教育の光を与えた。
稲造は体を悪くして札幌を去ったが、その後稲造は(日本とアメリカのかけはし)に、日本のために働く。 
当時、関係要職にあった人方は、稲造の世話になった人がたくさんいます。その功績が認められ五千円札にのった。

 
 民選初代北海道長官 田中敏文

(1945) 昭和20年8月15日、太平洋戦争が終った。 長い間の戦争のために、田畑も工場もすっかり荒れ果てた。 
北海道は人口が少なく、木材、石炭、水産物などの資源も多いということで、たくさんの人が移住して来ました。
山奥の開拓、明治のはじめの様な苦しい開拓でした。これまでは、北海道の長官は政府によって任命されていた。 

(1947) 昭和22年4月、はじめての選挙がおこなわれ、田中敏文が初代の民選による北海道長官になった。 
5月地方自治法施行で長官が知事に変った。 (1950) 昭和25年、「北海道開発庁」をつくり、札幌に
「北海道開発局」が置かれた。 《総合開発はじまる。開発計画は、10年を1期としてはじめられた》

☆ 昭和27年、第1期総合開発は遅れている農、林、水産、鉱業、工業、をのばしていこうというものでした。 
この仕事のなかで、桂沢ダム、国道5号線の舗装篠津原野の泥炭地改良、苫小枚工業港、根釧原野の開発、
広く各産業を発展させる事に力を入れた。

☆ (1963)昭和38年、第2期、この時期は、日本の産業が発展、北海道でも、農、林、水産は、約2倍、工業生産も
約4倍になった。
北海道は昭和43年に、開道100年を迎えましたが、全産業の生産額は、1兆円をこえるようになった。
☆ (1971) 昭和46年第3期、さらに産業を発展させ、豊かな北海道を建設し、幸せな社会をつくる事です。 
主なものに石狩湾新港の建設があります。

 
 安達 喜幸
明治初期、開拓使を代表する建築技術者。 札幌の洋風建築の ほどんとを設計、監督する。 
北海道で日本建築史に残る仕事をする。 明治11年、時計台(旧札幌農学校演武場)明治14年、豊平館。 
北大第二農場モデルバーン(模範家畜房) 国重要文化財に指 定されている。 
明治16年、旧根室県庁設計のため、根室出張中、病気になり、明治17年57才で死去。“大工の伝統に生きた人”

《北海道 開拓移民》
 屯 田 兵
黒田次官の意見を入れて、明治8年屯田兵をつくる。 北海道の開拓と北の守りのために、もと武士だった人達が
集められて、家族と一緒にやってきた。 のちには、一般の人達も屯田兵としてやって来る。
歳は17才〜35才まで 体の丈夫な、心のしっかりした人が選ばれた。  
屯田兵のくらしは、とてもきびしいものでした。 ラッパの合図で、皆いっせいに起き、仕事に掛る、休む、
昼ご飯、仕事終わり寝るなど、みなラッパの合図で、規律正しいものでした。 
畑仕事でなく、鉄砲の撃ち方なども練習、割り当てられた土地を、家族と一緒に開墾。 
また、家々を見まわったり、火事や水害の時には出動したり、熊がり なども、まちの人の安全を守るために、
色々な事をしなければならなかった。 およそ4万人の屯田兵が、37の村を開きました。
 
 こじき移民

明治2年、開拓使は東京から移民を集め、根室と宗谷へつれて行きました。 移民といっても、それらの多くは、
こじきなどでまったく役にたちませんでした。北海道で冬をおくる間に死んでしまった。
開拓使最初の移民は失敗してしまった。


 自移民
本州で、土地をなくした人や働く仕事のない人達が、新しい土地の開拓をしょうといきこん北海道にわたって来る。
なんでも自分の力でしなければならなかったので、いちばん苦労した
 
 中山久造
開拓の頃北海道は、米作不向きとみなされ、米を作ることを許されなかった。
中山久造、明治6年(1873)広島村島松沢に米作りを始めた。 冷込みの夜は、風呂で温めた水をたんぼに運んだ。 
改良をかさねて北海道向きの米を作った。 北海道の稲作の父といわれた。
現在も島松駅逓の横のたんぼに、久造の改造した米を植えている。 「寒地稲作この地に始まる」の碑がある。
 
☆ その横にクラークが帰国の時、生徒と別れの場所がある。「少年よ大志をいだけ」の碑がある。
《開拓の犠牲になった人々》
 囚 人                         
開拓は、力のいる仕事なので普通の人では耐えられない、賃金も高く払わなければならない。
監獄に入っている囚人なら むりやり働かせる事も出来る、やすあがりだと考え、明治14年、月形、三笠、標茶、
網走、帯広に監獄をつくった。全国から数千人の囚人を集め、道路づくり、石炭、硫黄堀りなど危険な仕事

屯田兵の家づくり毎日奴隷のように監督されながら、はげしく働かされ、体をこわしバタバタと倒れた。 
工事のときは、サーベルをさげ、ピストルをもった役人が、逃亡サボる者を見張っていた。
 
その時、囚人の大勢が費用削減の犠牲になった。 旭川〜網走を結ぶ道路工事、半年間におよそ千人の囚人の内
240人も死んだそうです。この道路を(囚人道路)といった。
明治32年、標茶にあった囚人墓地を移すために掘起こしたところ約300体、鉄のクサリに二人づつ繋がれ、
手錠をかけられたままの白骨がいくつもあった。
《網 走 刑 務 所 の 脱 獄 》
左は津別の街に行くとも知らずに夜明けの線路を走った。〃そのころ夜勤看守がロープを発見する〃非常ベルと
ともに非常召集、各舎房を一つ一つ点検、南部清の房をのぞく、南部は頭から衿布をかぶって寝ている。 
担当の看守は「異常ありません」と報告〃 2度点検「異常ありません」?変に思った保安課長みづから点検に!
寝ている時間なので配食口の戸口からハタキの柄で衿布を取った!
寝ていると思っていた南部の枕にはヤカン〃さあ〃大変〃房の中に入り夜具をはね上げた。

頭はヤカン、身体はゴミを丸めたもの〃天井を見るとポッカリ穴〃250名の職員が朝まで南部を追跡した。 
翌日も逮捕することが出来ず、48時間の刑務所の持ち時間が過ぎ捜索権を警察側に引き渡した。 
そのころ南部は津別にたどり着いたが逃走してから2日間、水のほか何一つ口に入れておらず空腹と疲れで
津別の橋の下で寝しまう。近くの農家の主婦、洗濯しょうと橋の下に降りてきた、近づいても目を覚まさない。 
主婦は、気味が悪くなり洗濯をしないで家に帰えった。  

 茶の間のテレビを入れてニユースを見ていると「3日前、網走刑務所から逃走した、南部清43才はまだ逮捕されて
おりません」とのニユース、画面に写っている男の写真、どこかで見た顔!橋の下の男だ、〃すぐ通報〃
警察が来てもまだいびきをかいで寝ている!そして逮捕〃あっけない結末だった。  
 過去70年間、只一人として屋根を破って逃走した事のない 1ページであった。
その後南部は2年6ヵ月の刑をふやされ、独房に入れられたまま…その後の南部清の消息はまったくわからない。 
人生の別れ道というが、左に行くか右に行くかで、人の運命が変る。
そこに行くと、看守が伯母の家を見張っていると思い、48時間待つ。
小太郎は現われない〃警察に引継ぎする、その手のゆるんだ時、3日目朝、馬小屋から脱け出した。 
子供に会いたい一心で、伯母の家に飛び込む。  伯母は自首をすすめたが聞き入れなかった。
伯母の天井裏に住む事になった。 
3ヵ月過ぎたある日子供を連れて青森八戸市に落ち着く。それから年月がなにもなく8年流れる。 
小太郎は、青森〜函館を連絡船で19才になった息子正男と一緒に、かつぎ屋をしていた。  
昭和29年9月23日、台風15号が来ていた。 息子正男「嵐だから明日帰ろう」と言った、小太郎は
「こんな風で船は沈まない恐いなら明日来い」と小太郎は連絡船に乗ってしまう。 

 その数時間後〃連絡船洞爺丸〃が遭難、千数百名の命を奪う。 その中に無期囚橋山小太郎がいた。 
一人の老人の遺体、最後まで引き取りないまま国鉄側で手厚く 葬られていた。
この話は、昭和38年何の因果か息子正男が網走刑務所に入って来た。
この話を書いた大隈玲吾が橋山正男と刑務所で親しくなりこの逃走の話を聞かせてくれたので解ったものです。 
それまでは、橋山小太郎は、満州に逃亡したとか〃網走川で溺れたとか〃と言う事になっている。 
橋山小太郎は死によって絶対に不可能とされた、網走刑務所から逃げ切ったのである。


《囚人救済に身をささげた人、原 胤昭(たねあきら)》
硫黄の生産量は年間2万トン余りと国内有数の規模。採掘された製品は米国などに輸出】胤昭はこの苛酷労働を
中止させる、表向きは 井上輝前が苛酷労働を中止させたが、この裏には原胤昭が働いている。 
懲罰に傾く監獄行政に抗議して教晦師を辞めてからは、死ぬまで出獄者の面倒を見続けた国家によって圧殺され、
切り捨てられる人々、社会の矛盾の吹き溜まりに置かれた人々の救済になげうった、隠れた人である。 
昭和17年、享年89才。

 あとがき
網走文化協会発行の大隈玲吾、番外地物語を読んで下さい。網走監獄博物館の売店で売っています。
この観光案内資料は、北海道の歴史の本、新聞、雑誌などを引用してつくったものです。
観光資料は、要点だけを取り入れて集約してあります。 説明文がつながらないところがありますが、
説明文の中に自分なりの説明を入れて観光案内をして下さい。 誤字、間違った説明文は正して、
観光資料の一部にして下さい。長井 二與  

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