松前藩最古の史書に、宇須岸
アイヌ語で(ウスケシ)湾の端と呼んでいた和人が蝦夷に住む ようになったのは、 日本書紀に、658年から3年にわたって、阿部比羅夫が
渡島にやってきたという記録があります。 札幌、旭川に次ぐ、道内3番目の都市。 北海道に和人が渡って最 初に発展した商都江差・松前に代わって発展する。
安政6年(1859)横浜、長崎と日本初の 国際貿易港し外国船の往来多くの西洋文化が入る。
その後、政治経済が札幌に移りましたが、港町として今もさかえています。 1454年、津軽の豪族河野政通が館(たて)を築いたが、この舘が箱に似ているところから、 この地を箱舘と呼ぶようになった。 明治2年、東久世開拓使長官が、箱館に来たとき“函館と改めた”鎌倉幕府がたおれ
豪族どうしの戦いに破れた 豪族が、渡島に逃れ函館の東から上の国まで12人の豪族が12舘を築き
和人村をつくる。
安政元年幕府は、アメリカ使節ペリーとの間で日米和親条約を結び、下田と箱館を仮開港。 ペリーは艦隊で箱館まで来て、松前藩と交渉するが、松前藩が対応に追われている間に、部下は函館山にも登り、 周辺の自然や街の様子、港の水深調査、測量、住民との交流などを行なって、箱館港は良い港であると満足して帰る。
80種類の植物まで道帰った、その標本は現在も、ニュ-ヨ-ク市の博物館に保管されている。 ぺり-は函館に対し自ら著した「日本遠征記」で「世界でも最良の安全で便利な港」と最大級の評価を与える。
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☆赤松並木 「赤松街道とも言う」安政3年(1856)箱館奉行は、佐渡から赤松の種を取り寄せ植えたのが始まりと云われています。 後に、明治天皇行幸のおり、記念に植えられたのが今の並木になる、樹齢130年になるのもある。 国道5号 桔梗町〜七飯町14.3km約1400本
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男爵いも、発祥の地
明治34年北海道開拓の先覚者、又、当時函館ドックの社長、川田龍吉
男爵がアメリカから持ち帰った種から改良し たもので、男爵の名が付いた。七飯町の畑地で農場に手伝いにきていた農家の主婦が栽培したのが、馬鈴薯、 男爵いもの始まりで、北海道の特産物になる。
元、川田家の所有地(桜が丘)に記念碑がある。 (七飯町鳴川の近くで、注意しないと行き過ぎる)
☆ 桔 梗 駅
昔はこの辺一帯に桔梗の花が咲き乱れ、桔梗野と呼んでいた。
明治4年これにちなんで桔梗と名付ける。
☆ 亀田町
亀田はアイヌ語で(シコツ)と呼ばれ、大きな窪地の意味。
和人は死骨と書いた、縁起が悪いので、 起の良い鶴亀にちなんで亀田と改められた。(昭和48年函館市と合併)千歳市と類似。
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☆ 亀田八幡宮旧社殿(箱館戦争降伏式地)
明治2年5月、大川、亀田の激戦があり、今も弾痕があります。 榎本武揚はこの神社に参拝し、降伏調印したといわれている。 函館駅新築立派になった。 連絡船が青森〜函館に行き帰した時はこの駅から
桟橋を通って連絡船に乗りドラがなり出港、悲喜劇、 ドラマがあった。
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北洋資料館
捕鯨などの資料が展示されている。函館道立美術館、函館地方の芸術家達の作品が展示。
☆ 五 稜 郭、(国の特別史跡)フランス式設計による築城で日本唯一のものです。 安政4年(1857)幕府は、北方警備のた めに日本初の洋式城
外郭が星型の城 洋式軍学者、武田斐三郎 7年の歳月かけて完成。(元治元年)元町にあった箱館奉行所を移した。榎本武揚・土方才三・幕府が、 ここに本 営を置いて抵抗し、函館戦争の舞台となった。 3年後慶応3年、徳川幕府は大政奉還。日本の最後の内戦場となる。 奉行所は函館戦争
終了後、明治4年札幌に開拓使本庁を建設する際、木材を必要とする理由で解体される。 さくら、ツツ
ジの名所。
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☆ 五稜郭タワー
五稜郭を一望、函館港、市内、津軽海峡、駒ケ岳、横津連峰、恵山など眺望できる。 五稜郭公園の桜、ツツジが満開になる頃は最高です。
☆ 四 稜 郭 官軍の反撃を知った榎本軍が、いそいで造った、全体が蝶の形。 ここでも激戦が行なわれた。
☆ 史蹟館、1階 箱館戦争はじめ、箱館と五稜郭関係の史蹟史料を展示。
武田斐三郎、榎本武揚の等身像もあります。
☆ 土方
歳三 京都新選組の副長でしたが、幕府軍では陸軍奉行でした。明治2年5月11日、官軍は五稜郭へ総攻撃。 箱館市内では前夜から官軍の奇襲で市街戦になった市民の損害をおそれた幕府軍は弁天要塞に逃げこむ。 土方歳三は、箱館を奪いかえすといって榎本ら幹部と激論のすえ兵50人をつれ五稜郭から出撃し、 一本木関門(若松電停付近)で敵と遭遇、敵弾を腹に受けて戦死。 (土方歳三、
最期の地碑がある)土方歳三は、鷲の木上陸以来最後まで戦いにあけくれたが、幕府軍幹部で 戦死したのは、土方歳三 只一人であった。享年35才
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☆ 大門通り・函館第一の繁華街。
右突き当たり函館駅。 本道の鉄道は函館を起点としてのびている。
☆高田屋嘉兵衛像
1796(寛政8年)箱館に来て5隻の船を持ち、北方漁場を開いたり、貨物を運漕したり、箱館のために大きく 貢献した先駆者。 根室、幌泉の漁場も経営し本拠を箱館に置いた。 北海道初の造船所建設、松前街道の改修、函館山と亀田山への植林、都市へ基盤つくり嘉兵衛あっての函館。 昭和33年7月15日開港百年祭を記念して造られた。
嘉兵衛はロシア船と密約をしていたと訴えられ、幕府の評決で全財産没収、全盛を誇った高田屋の落日です。
☆ 立 待
岬
岬に行く途中墓地がある、登って中ほど左側
石川啄木の墓がある啄木は岩手県渋民村生まれ、明治40年5月函館に来る。 商工会議所の職員、弥生小学校の代用教員、函館日日新聞の記者など、職をかえている。
明治40年8月の大火にあい函館を去り放浪の旅に出る。この墓地には有名人のお墓が多い、白い指標が立っている。 立待岬は津軽海峡に面しているので昔、異国船を監視する重要な所でした。 正面本州側が遠望、下北半島晴れた日は 、本州側の建物が肉眼で見える。
北海道側左(亀田半島 汐首岬)
右側(渡島半島 白神岬) ここから青函トンネルが25年の歳月をかけ (1988)昭和63年に完成。 延長距離 53.85q、海底部分 23,3q
津軽海峡は潮の流れが早いので昔、 小舟などは流されて遭難、エリモ岬まで流されたそうです。
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☆ 碧血碑(へっけつひ) (旧幕府軍の墓) 箱館戦争は、明治元年から翌年にかけて戦われた、幕府政府軍とも多数の死者をだした。 (この通りは裏参道)侠客
野村熊吉が 子分と共に「政府も幕府も同じ日本人」だと亡くなった方々を、 (土方歳三、中島三郎助父子など)この地に埋葬。
明治8年7回忌に、幕府軍戦死者796名を祀る碑が建設された。 碧血碑の前に侠客 野村熊吉のお墓がある。
☆ 函館八幡宮
文安2年(1445)河野政通が、応神天皇、住吉金比羅の神をお祀りしたのが始まりで、 函館の守護神として尊ばれている。
☆ 護国神社 (新政府軍の墓)
明治2年の箱館戦争から第二次大戦までの戦没者の霊を祀している。
☆ 函館山 標高 334m 臥牛山(がぎゅさん)ともいう (牛が寝そべっている形)函館山は北海道では見られない大きな杉が生えている。
高田屋嘉兵衛は箱館山と亀田山の植林など都市の基盤造りをした。
色々な動、植物の宝庫、マムシもいる注意の看板あり。 3分で結ぶ函館山ロ−プウエ −山頂から扇形に広がる函館の市街宝石を散りばめたような夜景は (百万ドルの夜景と 呼ばれる)素晴らしい。
道路ところどころに、大きな(ハタキ)があります、これは火を消す道具。 戦争中は頂上近くに要塞があり立入禁止でした。
展望台から見る湾は、巴の形をしているので
巴湾 巴港とも言われている。 函館の市章は巴のデザイン。 夜景は、香港 ナポリに並ぶ 世界三大夜景。
展望台基部に「伊能忠敬 北海道最初の測量地」の銘板がある。 忠敬は山頂から山や岬を測量。
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☆ ブラキストンライン
文久元年(1861)イギリス人・ト−マス・ライト・ブラキストンが貿易のため函館に来る。 鳥や動物に興味をもち、調査研究し北海道の動物と本州の動物が津軽海峡を境に変わっている事を発見し、 津軽海峡をブラキストンラインと名付ける。偉業を称え昭和35年函館山 に記念碑が建てられる。
☆ 聖ヨハネ教会
明治7年、イギリス聖教会の牧師デニングが来函して伝導が始まった。
☆ カトリック教会
安政6年(1924)フランス人宣教師が
仮聖堂を建てたのが始まり。ゴシック様式のロ−マカトリック教会。 館内にはロ−マ法王 ベネディク15世から寄贈された祭壇もある。
聖堂の奥にルルドの洞窟があり 聖母マリア像が飾ってある。 神戸のカトリック教会と似た造り。風見鶏がエキゾチック。
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ハリストス正教会 (国指定重要文化財)
かって司祭ニコライが伝導の拠点にした教会。安政6年に、ロシア領事館付属聖堂として建てられ 明治40年の大火で焼失し大正5年に再建
ビザンチン式ギリシャ風教会。
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☆ 元町貯水池
この貯水池を結ぶ上水道設備が出来たのは、明治22年、横浜に次ぐ我が国で2番目に古いものです。
☆ 旧函館区公会堂 (国指定重要文化財)
明治40年、函館は大火で市内の3分の1を焼失した、市民の集まる場所つくるため、寄付を集めて 明治 43年に建てたものです。
イギリスの古典主義を簡略化したコロニアル、スタイル、洋風建築。 内部はルネサンス調で統一され、バルコニ−から函館港が見える。 明治を代表する木造建築で今でもコンサートなどに使われている。
☆ 元町公園
箱館奉行所跡、元町公園前の坂
かって街の中心地でした、このあたり役所が存在。(松前時代 亀田番所) (幕府時代 箱館奉行所)(明治時代 開拓使支庁)(三県時代
函館県庁)(北海道道庁支所)に変わっていく。
☆ 函館は坂の街 主な坂道
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20間坂(36m)ある所から呼ばれている。
◇チャチャ登り・ ハリストス、ヨハネ教会の間の急な小道、チャチャとはアイヌ語で(お爺さん) 腰を曲げて登るから名がついた。
函館の代表する坂。
◇八幡坂・函館市街 港
を眺める坂として又、バック写真撮影場所としては最高です。 絵はがきカレンダ、パンフレットなどに取り上げられている。
◇基
坂・ 明治に入ってこの坂下に里程元標が建った、里数を測る基点となった。由来はこれから来ている。
◇姿見坂・ 坂上に遊廓があった。 “芸者衆の歩く姿を見る”
◇魚見坂・ 大きな坂としては最西端、この坂からニシンの魚群、 豊漁船を、見を下ろす事が出来たのでそう呼ばれた。
☆ 中華会館
日本に残る唯一の純中国風建物。明治43年当時の華僑(中国商人)が中国から材料を運んで建てたもので、 関帝廟型式の集会所としてはめづらしいものです。三国志の武将関羽をまつる関帝壇があり、入館できる。
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☆ 弥生小学校
明治9年、明治天皇北海道御巡幸の御宿でした。 石川啄木が教員をした学校です。
☆ 高 龍
寺
寛永10年(1633)
松前藩によって亀田に建てられたのですが、宝永6年(1706)当地に移転、市内最古のお寺。
箱館戦争中、箱館病院分院にされていたとき、幕府軍の傷病者が入院していたところを、官軍に襲われ、 多数が殺されました。境内にある(傷心惨目碑)はその慰 霊碑です。 山門の彫刻、本州から腕の良い彫刻の職人を呼んで彫らしたものです。
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外人墓地
外人墓地の始まりは、安政元年 ペリー艦隊
二人の水兵が死亡その埋葬場所を求められ葬ったのが、 この外人墓地である。 ロシヤ墓地、中国墓地異人達の墓が並んでいる。
☆ 函館ドック
最盛期の頃、この工場は1万トン級の大船舶をつくる我が国有数の造船会社でした。
バブル崩壊後倒産、観光会社に買い取られている。
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☆ 東浜旧桟橋 連絡船は沖に停泊、はしけに(小型船)乗り換えて、この桟橋に乗り降りした。 明治維新後、北海道に渡った人々はこの桟橋に上陸、第一歩をふみしめた。 この辺りは函館の港町として栄えた所です。その後函館駅の方に移り繁華街も移っていった。
☆ 上陸記念碑
明治9年7月・明治天皇北海道御巡幸の際、御上陸を記念したもの。
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函館ヒストリープラザー
赤レンガの倉庫群(金森船具店の、船具、漁具の倉庫だった)現在は、ビアホール・アンティーク・アートショプ しゃれた店が並んでいる。
豪商の、商家、倉庫、古い建物を利用してショピング、コーヒ店、レストラン、 郷土資料館などに活用されている。この辺には、金森美術館、太刀川家、高田屋嘉兵衛郷土資料館。 この近くに(日本最古、大正末期の電柱)現在も使われている。
☆ 明 治 館
旧函館郵便局明治43年〜44年 本館
付属棟と完成 レンガ造り明治の文化を象徴する建物。 函館は、明治5年 郵便業務がスタート
北海道郵便発祥の地。郵便は、当時函館〜東京間 9〜12日間かかった。 札幌も同年 10月開所
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☆ 函 館
駅 1988年までは、函館駅終点
駅桟橋から青函連絡船に乗り換えて青森まで4時間、連絡船出発の時 ドラがなって桟橋で悲喜劇
ドラマがあった。 現在は、トンネルで
2時間早く便利になりました。 トンネル部分の レールはつなぎ目のないレールでトンネルに入ると 車内は静、カタカタ
コトコトの音が無く快適です。
☆ 函館朝市 約360軒の店がならんでいる、海産物
農産物、豊富。食堂は、 イカソウメン、ウニ丼、イクラ丼、安い。
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☆ 函館の中心市街 (大門通り)
デパート、 ショピイング店 飲食街 娯楽施設、駅前一帯繁華街になっています。 鮭鱒船団、捕鯨船団、 華やかな時は船団が帰って来ると乗組み員は千円札束を胸にいれ千円札が飛 ぶように使ったそうです。 200
カイリで船団が無くなり、人口も35万人あったのが現在 30万人をきった。
☆ 大森海岸
明治40年、昭和9年、大火があり当時は木造建築、屋根は柾ぶき火事になるとあっという間に燃え移り、 火の粉が飛んで離れた所でも燃え移り焼きつくした。 ここは風が吹き抜けるので、海岸沿いに学校、大きな不燃建築物を防火の為に建てたようです。 街のなかに植林、道幅を広くとり防火帯にした。
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☆ 慰 霊
堂 (大森公園内にある) 昭和9年3月21日40mの烈風にあおられた火に焼死者、身元不明の
引き取り手のなかった679柱の、 み魂が静に眠っております。(焼失戸数20、600戸・2、000余の人命をうばった)
☆ 啄木小公園
この辺、明治の頃は砂山でした、啄木はここに来て海を見ていたようです。 現在は浸食を 防ぐ護岸されている。 岩手県渋民村生まれ、放浪の旅にでる、明治40年5月
函館に来る。
商工会議所の職員、小学校の代用教員、新聞社の記者など職をかえ貧しい生活の中で歌を親しむ、函館での有名な歌、 「東海の、小島の磯の砂浜に、我泣き濡れて、蟹とたわむる」明治40年8月函館大火で家をなくし札幌へ、北海道を 点々と移り歩く、札幌1週間、小樽、滝川、釧路、新聞社代用教員などで働いていたようです。
胸を患って(肺結核)26才没す。
墓 は節子夫人の希望で立待岬の墓地にある。 その後、妻子も感染して亡くなる。 詩からの石川啄木は孤独薄幸な詩人。
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トラピスチヌ修道院 (開館時間
8時〜17時閉門)
明治31年フランスから修道女8人が派遺され司教ベルリオーズ師により開いた修道院。 修道女になるのには厳しい審査があり、誰でもなれるものではない様です。 カトリック信者、教会、神父の保障のある人、年令24才〜36才位迄、入ってしまうと院内から出られません。
祈りと奉仕の両道をもって、自給自足、質素な規律正しい生活をしています。 奉仕生活は無言のお祈り7時間、労働5時間、睡眠8時間その他は読書等に与えられる。 (80余名修道女)現在約70人 院内では、田畠、家畜飼育、色々な製造工場などがある。 広場にあるミカエル像はフランスから贈られたもので、悪魔をほろぼす大将軍と云われている。 ここの外に西の宮、福岡、那須の3ヶ所あります。湯の川は天使園の分院です。
☆ 上磯町三ツ石にトラピスト修道院がある。 (函館駅から約24km)フランスの修道士が明治29年に設立した、日本最古の男子修道院。
参観は男子のみ予約がいる。(参考)
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☆ 湯の川温泉 《泉質は食塩泉》 函館東部にある津軽海峡望む温泉街。 温泉に入りいさり火を眺めながらの宿もある。 開湯330年、北海道の三霊泉とも呼ばれている。 洞爺湖温泉、昆布温泉。 承応3年(1653)松前7代藩主、公広の子、千勝丸が難病にかかり、その母、夢に神様のお告げ、ここに温泉が ある事を知り、心をこめて入浴させますとたちまち全快、ここに薬師堂をたてる、これが温泉の起源。 松倉川をはさんで両側に温泉場のお湯が川に流れて、湯の川になる。
道東に川湯温泉がある、間違うので道東は川湯温泉。 |