北海道観光案内
道 南 観 光 |
(1)
支笏洞爺国立公園 昭和24年、道内3番目に国立公園に指定された。
面積 99,000
ヘクタール石狩、胆振、後志の三市町村にまたがる国立公園。 支笏湖アイヌ語(シコット)大きな窪みのある湖、火山陥没湖(カルデラ湖)死骨湖と読んだ時 もあった。
約4万2千年前の支笏火山の
噴火で支笏湖ができた。“日本最北の不凍湖” 田沢湖に次いで我が国、第2の深湖、 周囲41km・水面標高248m・深さ363m・ 透明度17m良い時25m北側湖岸には、支笏湖温泉・丸駒温泉などがある。
☆ 毎冬1月末頃、支笏湖氷濤まつりがある。色々な形のやぐらを作り、支笏湖の透明な水を霧状に吹き付け 凍らせてさまざまな氷像を作る。 夜間は氷像をライトアップし、ロマンチックな雰囲気をつくりだす。
☆ 姫鱒(チップ)の養殖が有名です。お刺身 塩ふり焼き美味姫鱒は、紅鮭が俎上して川や沼に産卵、 紅鮭の子が何らかの事で海に戻れなくなり川や沼に“陸封魚”
☆ 恵 庭 岳 1320m(活火山)
昭和47年冬期オリンピック滑降が行なわれた。
☆ 樽 前 山
1041m(三重式活火山)
寛文7年(1668)爆発が記録されてから、昭和6年20回も噴火し、 明治42年の噴火で頂上にド−ムが出来上がり、世界に珍しい三重式の火山になる。
☆ 風不死岳
1103m(フップシヌプリ)トド松の群生している山
☆ 苔の洞門
支笏湖湖畔から13q国道276号南岸にある・切り立った岩肌に30種類のコケの回廊、支笏湖畔の 原生林に長年沢水や風雨が溶岩を浸食して創り出した。高さ10m、延長420mにわたる。
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(2)
美々貝塚
美々(ペツペツ)小川の集まり、から訛ったものです。 縄文時代の貝塚、今の海岸より17kmも離れているが、 貝の種類や魚の骨や 地質などから、8000年前は海だった。
石狩から札幌、千歳、苫小枚にかけて平野は海でした。 千歳、この周辺には、遺蹟、立穴住居が数多く見つかっている。
(3)
運河の構想
開拓使は太平洋から美々川〜千歳川〜石狩川へて日本海への運河の構想があったが(舟で荷物を運ぶルート) 鉄道が先に敷かれたので、運河の構想はなくなった。
(4)
ウトナイ湖 周囲16km・深さ1〜3m
苫小牧市東部に位置する、シベリヤから飛んでくる大白鳥、国の天然記念物のマガン、オジロワシ、オオワシなど年間 258種類の渡り鳥が羽を休める。 1981年、日本野鳥の会が日本初のサンクチュアリ(聖域)に指定。 1991年には、同湖を含む510がf、釧路湿原とともにラムサール条約登録湿原となった。
近くには国道36号線、苫小牧東開発など開発の波にさらされやすく、「環境保全の面で差 し迫った危機にある」 環境庁が2,000年度から取り組む「野性鳥獣との共生環境整備事業」の対象に、最初の事業着手地として、 ウトナイ湖が最有力となった。きちんとした整備、管理、手厚い保護が大事だ。
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(5)
苫小牧市(トマクオマナイ) 沼のうしろにある川/・苫小枚の近くには、洋紙の原料となる木材になる木がたくさんあり、支笏湖の水で、発電が できる、工場用水があり、鉄道の便がよいことなどから、明治38年、王子製紙会社が工場をつくる事になった。
明治42年、最新式のアメリカ製機械が5台据え付けられた、翌年9月には、日本一の新聞洋紙生産工場として活動した。 パルプの工場、王子製紙 国策、岩倉などがある。
☆ 昭和38年、苫小枚港がつくられた。 苫小牧港フエリ−タ−ミナル 八戸、仙台、名古屋、太平洋を航海している。
☆ 苫小牧東開発、石油備蓄基地、トヨタアルミホイル工場、 いすず自動車のンジン工場、等多くの工場が進出しています。
☆ホッキ貝、苫小牧の特産品市内飲食店で創作料理がわえる。
(6) 社
台(サタイペツ)前に林と川がある
社台牧場、ここでは300頭余りの競争馬が飼育されております。2才になると千葉県に送られ競争馬として訓練される。
(7)
白老ポロトコタン(大きな湖の村)周囲4k湖面積33ヘクタ-ルアイヌ民族が生活していたコタン(村)を ポロト湖畔に復元。 白老(シラウナイ)虻の多い所、(ポロト)大きな湖、(コタン)人の住む所、村の意味。
アイヌ古老の立像・高さ16m硬質プラスチック製。 かやぶきのチセ(住居)ヤプ(食糧庫)などを復元。 アイヌ民族の踊り、アイヌ民族のお話、アイヌ民族博物館、5千点をこす民族資料。
☆ アイヌと和人(日本人)
京都芸術大学教授・梅原猛氏はアイヌも弥生渡来人と混血した和人も、氷期に寒冷地適応を受けて人種的に 小進化したか、どうかなどの違いはあるが、同じモンゴリア系の人種であり、その源流は縄文時代人で、 文化も言語も同一の基層から出発したものであると断定されたのである。
アイヌ民族が日本人とは人種が違うのだとの考え方が、和人のべっ視と迫害の元になったと語っている。
アイヌ文化は、日本文化と関係ないとして、北大にさえその講座がない、骨格、血液、言語、宗教など その根っこから説き明かす梅原教授のお話は仮説だが説得力がある。
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☆
日本の領土
江戸末期、ロシアの南下に蝦夷地を
日本領土とし幕府の直轄地とした。 明治4年、明治維新後は 同化政策でアイヌを 和人化する一方
和人の移住を推進する。 明治5年、地所規則を制定し、アイヌが狩りや漁をし、木を切り、木の実を採っていた土地を奪い。
明治10年山林原野、アイヌの居住地まで官有地にする。 明治30年、北海道 国有未開発地処分法などで広大な土地が、ただ同然で和人の手に渡る法律が施行された。 その後、北海道旧土人保護法第1条によりアイヌ1戸に1万5千坪(約5ヘクタール)与えられたが遅かった。 良い土地は和人に取られ、作物の生らない所ばかりだった。
大正8年、昭和12年、何度かの改正があったがその後の改正では各種の保護規定は次々と削除され、現在同法は、 実際に行なわれる事のない農地付与、所有権制限、保護施設補助 、共有財産の項を残っているだけです。
このうち、共有財産の規定は、土地に対する所有権制限と同様アイヌは劣等、金銭管理能力がないと言う考えに立って 設けられ、保護の名の下、多くの金銭、土地を奪っているにもかかわらず、真正面から取り上げられた事はない。
萓野茂さんが参議議員になってアイヌ新法が出来た。良い新法になってほしい。「その萱野さんなくなっている」 |
☆ アイヌ人口
日高・約1万人、 胆振・約7千人、
釧路・約2千人、石狩・約2千人、十勝・約1千人、根室・約1千人、上川・ 約370人、 網走・約220人、宗谷、留萌・約40人、
空知・約7人、 北海道全体に約2万5千人、これは昭和55年の 統計です。“人口を調べるのは差別になる”若い人は道外に出て年々減っている。
☆ 白老仙台陣屋跡
安政3年〜明治元年まで、12年間仙台藩の兵が北辺警備のため送り込まれた。 明治新政府になって、幕府側だった仙台藩は明治元年7月、支笏湖を山越して小樽から仙台に落ちのびたそうです。 (史蹟として国の文化財に指定されている)
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(8)
昭和製紙白老工場
昭和34年、半農、半漁、の原野に建設された。 新聞紙、ダンボ−ル、印刷用紙、などの紙 が生産されています。
この地〔吉原〕は本社のある静岡富士市に同地名がある。 萩野・明治14年、明治天皇が行 幸のおり、萩の花が咲いているのをご覧になり〔地名〕萩野と命名された。
(9) 竹 浦・樽前山麓は
根曲がり竹が密生している所から竹浦と呼ばれている。 “この竹は豆類、野菜などの手柴に使われる”
(10) 登
別 (ヌプルペツ)濁流、濁った川 登別で駅逓と漁場を経営する滝本金蔵、安政5年(1858)温泉場開くきっかけは妻の病気療養のために始めて 140年余引き継がれている。 第一滝本館・滝本金蔵・初代創設者。
☆ 大 湯
沼、(ポロユ) 周囲1km 爆裂火口跡に湯を吹き出す温泉沼。
表面温度40度〜70度 深さ20m位の沼底で130℃に達する温度。 この辺一帯にはウルシの木が生えている。
秋、ウルシの紅葉が美しい。
☆ 日和山の噴気は気圧に反応するので、登別の漁民は天気模様を日和山で予想した。 道南恵山町・字日和山。
小樽祝津にも日和山がある、天気を予想。
☆ 倶多楽湖(クッタラ)虎杖、イタドリのある所・カルデラ湖虎杖浜(クッタラウシ)イタドリの密生している所 周囲
8.6q・水深 147m・水面標高 260m・透明度
24m日本第3位の透明度・ 湖畔には、キヤンプ場、ヒメマスの養殖釣り、有料。
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☆ 1日1万トンの湯が湧き出る。年間140万人以上宿泊する東洋一の温泉地。
☆ 標高
650m山頂に、ユウカラの里 罷熊博物館、熊牧場 約200頭
☆ 地獄谷、直径450m、面積11ヘクタールの広い爆裂火口跡。1億数千年前の形成(怪獣いる頃)
1万年前、活火山が 噴火のときの爆裂火口で赤茶けた岩肌 からガスが噴出している。毎分約3000?の湯がゆう出する登別最大の湯出源地である。 クッタラ火山の噴火の形成されたもので、原始のまま活動している。
放射能泉(ラジウム)・ 硫酸塩泉(ナトリウム)・ 硫黄泉・含鉄泉(酸性緑バン泉)塩化物泉炭酸水素塩泉・単純温泉・などの温泉がいたる所から湧き出ている。
(11)
新登別大橋・ 橋から谷底まで120m、橋上からの眺め絶景、秋紅葉の時期は最高。
(12)
カルルス温泉・ アイヌはこの地区を、(ペンケネセ)小川の床とよんでいた。ペンケ・ユ(上の温泉)登別温泉の上にあるの意味。 明治19年(1886)に発見された温泉です。明治32年(1899)開湯、泉質はカルシュウム含む単純泉。 カルルスはアイヌ語ではなく、この温泉がチェコスロバキアのカルルスバードに類似してことから、 カルルスの地名にしたという。温泉旅館6軒.スキー場.登別の奥座敷
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(13)
オロフレ峠(赤茶けた場所) 標高930m
砂利路のころは、峠は急で車がオロオロ車の尻フレながら登った、 ドライバーは、ここはオロフレだと言って峠を越えたそうです。
☆ これらを白樺(樺科)と言う。 オロフレ峠はダケカンバが多い。 この辺は気候が厳しいので、本州で2000m位の山岳で咲く高山植物が生育している。 7〜8月頃が見ごろ、道路縁でも高山植物の花が見られる。
☆ 硫黄鉱山の跡、
この鉱山の硫黄採掘は日本一だった。この辺跡地一帯山火事になり、その跡地に熊笹が密生している笹に花が咲く年は 笹が枯れて、黄色に染まるこの辺を黄渓峡という。「熊笹は熊と関係なく、葉が九枚だから、くまい笹それが訛って 熊笹となった」山岳地帯には、ねがまり竹(千島笹)これも笹の種類。
(14)
弁景温泉
弁景川は褐鉄鉱を含んでいるため赤い流れとなって いる。神経痛、婦人病、皮膚病、リウマチなどに効きめがある。 山間の温泉郷
☆ 大福豆・洞爺湖の(名菓、わかさいも)の原料は、大福豆、イモのスジは、こんぶなどでスジに似せてつくられている。
(15) 久 保
内(クオナイ)弓矢を仕掛けておく所この地区でアイヌの人達が仕掛け弓で獲物を捕らえ生活をしていた。
(16) 壮
瞥(ソウペツプト)滝のある川の入口
北海道でもこの地区は気候が温暖で果実の栽培が多い「果物の里」と知られる壮瞥町。 観光客向けの「フル−ツ街道」(国道453号)沿いに並んでいる。
☆ 昭和49年
第55代横綱になった北の湖の出身地。
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(17) 昭和新山 ベロニーテ型火山 標高
407m
昭和18年12月28日、まえぶれもなく麦畑が爆発、突然突起、壮瞥町の郵便局長、三松正夫さん
新山活動中 測量機器を持たないで、棒を2本立て糸を目の高さに張り目測で、盛り上がりを記録調査。1日1m盛り上がる、 農民はあれよあれよと呆然と眺めるだけだった。「時局がら、国民に不安を抱かせてはならない」と報道は規制され、 人々に知らされなかった。
昭和20年9月下旬活動停止状態になった。
三松さん、昭和新山成長図(ミマツダイヤ グラム)を作る。
昭和21年、昭和新山生成地を買取、昭和52年まで観測を継続する。
昭和23年、万国火山会議に資料を提出 「ミマツダ イヤグラム」と命名され絶賛をうける。 生涯3度目の、有珠山噴火を体験、89才没す。
現在でも、噴煙 噴気、表温度は300度・近付くと危険、 登山禁止現在は壮瞥町が管理している。
大東亜戦争真っ只中、住民は最初「室蘭あたり米軍の攻撃さらされているのでは」とささやき交わしたそうです。 時間とともに大地の揺れたまらず、洞爺湖温泉街の住民は、先を争って馬車や馬ソリで避難をはじめた。 馬も目を充血させ四肢を突っ張って立ち往生した。
(18)
有珠山(活火山) (有珠ウシ)入江、湾 標高
732m 1万年前に活動しはじめ、7〜8千年前の大爆発で頂上部が崩壊、現在の外輪山の形が できたといわれている。 火山活動で小有珠、大有珠、四十三山(明治新山)次々新しい山を形成し、昭和に入って 昭和新山できる。 昭和52年8月、有珠山爆発 噴煙が12,000m大噴火、灰は札幌まで飛ぶ。
有珠山麓には火山灰が30p位積り
作物、植物、山林全滅、有珠山の立ち枯れの木が当時の物凄さを語っている。 その後53年に泥流発生し死者3人、山麓の山林、耕地、建築物は流され、膨大な被害がでた。
火山噴出物総量8,300u・人の暮らし動物も大打撃を受けましたが、徐々に回復してきています。 “有珠山の噴火”(寛文3年、死者5人)(文政5年、1村全滅、死者50人)
☆ 明治新山、よそみ山ともいう、明治43年に噴火した山。
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(19) 洞 爺
湖(トウヤ) 湖に面した丘
(虻田町、洞爺村、壮瞥町、2町1村にまたがるカルデラ湖、車で一周1時間。 周囲 43q・ 水深 179m・ 水面標高
83m・ 透明度 17m・
☆ 明治43年、新山爆発43年前は小さな部落で、明治新山爆発で村は移住し無人となった。 大正に入って開発が進められた。
三松正夫さん、大正6年、温泉源発見開祖となる。
“島4島”
@ 大島・周囲(14、5km高さ300m)二千数百年前、先住民族が生活していた。
先住民族の遺物が発掘されている。
A 観音島に、円空上人がナタ彫りの「聖観音菩薩座像」が祀られている。 座像には寛文6年(1666)と刻まれており、この像はアイヌの人たちのユーカラにも登場しています。
B 弁天島・縁結びの神、弁天様が祀られている。
C 饅頭島・(ポンモシリ)小さい島。青大将が居る事から蛇島ともいわれている。
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☆ 中島のエゾシカ 観光用に放したのが推定200頭にも増え埴生への影響が懸念される。 エサがなくなり、鹿が中島から泳ぎ渡っているのをみかけるという。
☆ エゾオオカミ
エゾシカは開拓時代に絶滅の危機になつたことがある。 明治12年は豪雪だった、エサが雪の下になり餓死、以前から革、鹿角の輸出するため乱、シカを主食にしていた
エゾオオカミが牧場の馬を襲うようになり、開拓使が、明治10年駆除のため賞金をだすようになった。
本道のオオカミは、明治22年函館地方で35頭、札幌で4頭を最後で北海道から姿をけした。
二ホンオオカミは(明治38年)奈良県で1頭が仕留められたのが最後で絶滅したとみられている。
☆ 全滅したものでは、ニホンカワウソもいる。 昭和初期、札幌近辺でもいたのだが毛皮目的の狩猟などで
昭和20年頃北海道から姿を消した。
」 ☆キタキツネ
昔は、動物の交通事故はイヌ、猫だったが、今はキタキツネが多い。キツネは可愛いが素手で触らない事、 人間や羊などに感染するエキノコックスという寄生虫に感染する。
感染すると肝臓がおかされ死亡に至る。 治療は感染部の切除しかない。エキノコックス症の確認から30年で道内全域に広がり400人を越す患者がいる。 道内出身者が多い。(お客様に注意する事)17/1/31(北海道新聞から)
衛生研飲料水衛生課の伊藤八十男・課長は「わき水は、キツネなどのふん便で大腸菌やエキノコックスなどに 汚染される危険があり、検査を通じて安全性を確保したい」と話している。地下水が自然にわき出し、「名水」などとして 住民や観光客の人気を集めるわき水について、(札幌)道立衛生研究所は新年度から、道内30ヶ所で水質検査にのりだす。 わき水は人気が高まる一方、水質に関する法規制がない。 衛生研は、問題がないわき水については「安全宣言」を出し、地域振興の一助としたい考え。
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《 室 蘭 廻 り 》 |
(1) 幌
別(ポロペツ)大きな川 文化年間(1804〜1817)松前藩の所領でした。
(2) 鷲
別(チユアシベツ)浪立つ川
明治2年、仙台白石藩
開拓に入り失敗、札幌白石に移り、開拓に成功する。
(3) 室 蘭
市(モルラン)静に下がる路
室蘭は
松前藩家老蠣崎氏の所領。明治維新10数戸でしたが、明治5年
室蘭〜札幌の道路が開通してから人口も増え 明治25年、蘭に鉄道が開通してから急激に発展しました。
☆ 新日鉄・富士製鉄と八幡製鉄が合併して出来た、「新日本製鉄株式会社」室蘭工場は明治42年、噴火湾の砂鉄を 利用して、60トンの溶鉱炉を建設し、創業したのが始まりです、我が国第一の製鉄会社です。
☆ 日本製鋼室蘭製作所・明治40年創立
日本軍の兵器工場、軍艦、大砲など作っていました。 戦後は平和産業に切替え、大型機械、船舶、車両、等生産している。
☆ 日本石油精製室蘭製油所・昭和31年操業開始、道内最大の製油所。 ガソリン、軽油、重油、灯油、ジエット燃料等を製造している。
☆ 地球岬・灯台は明治24年建設、約100mの絶壁の上にあり、30万燭光(光達距離40km)航路を照らしている。 地球が円く見える。断崖絶壁から見渡す限りの海が地球の丸さが分かる。 うんが良ければイルカの回遊が見られることもある。
☆ 噴火湾地帯は魚が豊富、気候が温暖。昔は噴火湾に鯨がいた、 アイヌの人達はモリにトリカブトつけ鯨に打ち込み弱った所をとったそうです。
☆ 母
恋 アイヌ語で(ポク・オ・イ)ホッキ貝が群生する所
明治初期、仙台藩の家臣が開拓に苦労し、故郷に残した母を偲んで母恋の地名にしたの説? 母恋富士・標高168m(アイヌ語地名・ポコイ)からの説?
☆白鳥大橋
1998年開通の大規模な吊橋、白鳥が羽ばたいているイメ−ジ、夜間はライトアップ。
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(4)
伊 達 市
明治3年、仙台支藩(せんだいしはん)亘藩主(わたりはんしゅ)伊達邦成(だてくにしげ)明治維新幕府に味方した 亘藩(わたりはん)3万石、58石に減封され一族7千名、禄を失い伊達家の財産全部売り払い旅費にあて明治3年4月 武士と家族220人、大工、土方、20人北海道に移住開拓にあたった。 当時はアイヌ小屋が2・3軒で狼、熊が出没、 開拓は大変だった。
☆ 伊達開拓記念館
伊達邦成ゆかりの屋敷、史料、美術品、昭和33年開拓記念館として開館。
☆ 特産品・野菜、酪農、園芸作物、特に果物の産地として有名です。伊達は気候が温暖、道内野菜早だしで有名です。
(5) 長 流〔おさる〕 (オシャレベツ)芦の多い川
(6) 有
珠(ウシ)湾、入り江の意味
☆ 有珠沿岸はのりとカキの養殖〃今では、のりの生産は道南一です。
☆ 有珠町に有名な有珠善光寺
蝦夷三官寺のひとつ(文化3年幕府が建立)《様似の等樹院(文化3年)》 《厚岸の国泰寺(文化元年)》隠れキリシタンが 蝦夷地に渡っていた。
善光寺の境内の灯篭裏にマリア像が刻まれている。
☆ 境内には、イチョウ・三本杉の大木・石割桜があり、道名木に指定されている、桜の名所。
(7) 虻田市街(アプタペツ)魚カギをつくった川
「アイヌ人達は川に上る鮭をカギでひっかけて獲った」洞爺駅・前は虻田駅と呼んでいた、人は(ヘビタ)と呼ぶ人が 多かった。昭和37年1月虻田駅を洞爺駅に改名する。
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(19)から続く
(20)豊 浦 町 アイヌ語で(ベンウベ) 小さな小川が集まる所・弁辺と書いた語呂が悪いので、豊かな海を表して豊浦とした。 豊浦町はイチゴの産地、南斜面で日当たりが良いので、おいしい苺がなる。国道両側に苺の売店が並ぶ。
北海道の地名の由来
平安期は「蝦夷が島」「蝦夷が千島」、鎌倉期は「夷島」、江戸期は「蝦夷地」「蝦夷地」の名を改めることについては、 松浦武四郎が、明治2年、意見書を明治新政府に提出しています。 「日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道」の六つをあげさらに検討が加えられ「北海道」 明治2年8月15日に決まりました。 「その日を開拓記念日にしている」全国で「道」と付いているのは、北海道だけです。
これは律令制時代の行政区画
「五畿七道(ごきしちどう)」と考えられ東海道や山陽道などと同じように地方の行政区画 として「道」を使ったわけです。北海道は地名と同時に、行政区画名でもある。 北海道の地名は水戸藩主 徳川斉昭、天保10年(1839)ころ「蝦夷地は日の出国あるいは北海道と称した方が良い」と いう提案し蝦夷地全図に「北海道」と記した記録が残されています。
(21) 静
狩(シットカリ)山のこちら
静狩峠下りて、長万部の平地が見えて来る、牧場が山沿いにながく広がっている。この地区は、潮風が強く農作物は取れないので牧草畑が多い、この牧草は潮風が自然に牧草に着く、牛には良い餌料になる。サイロに秋、レントコン(トゥロモコシの種類)をきざんでソーダ、塩で醗酵塩蔵 (エンシレージ)する。冬の間ほし草とエンシレージを、混ぜて食べさせる、牧草が主食エンシレージが副食。
又、ビートパルプ(砂糖大根の搾りかす)も食べさせる。北海道の牛乳がおいしいのは、これらの飼料でおいしくなるのでは。
(22) 長 万
部(オシャマンペ)北海道の珍地名のひとつ
由来は、長万部山(シャマンベヌプリ)からの説と、長万部川の川口が曲がっているの説。 (オ・シヤマンペ)ヒラメのいるところ。“定かではない”アイヌ語は研究する人が少ない、地名も意味不明なのがある。
アイヌ語地名研究する人によって地名も変る、文字を持たないアイヌの人達は、川、沼、場、地名にして語り継いだ。 古老が孫にと言い伝える(ユーカラ)日本では、浄瑠璃、びわ(楽器)引き、語り継いで行く。 元治元年、箱館奉行が(オシャマンペ)と呼ばれていたのに長万部の字を当てはめ長万部村と名付ける。
☆ 長万部温泉、二股ラジウム温泉、などがある。
☆ 長万部名物 かにめし
☆ 主な産業、酪農、漁業、(蟹、ホタテの養殖)
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(23)
トイレタイム (かに市場) 今は何処でもトイレは立派になった。 昭和50年頃は北海道はトイレが汚かった。 かに市場に1億円トイレが豪華に出来観光の車は皆んな珍しくここに寄ったものでした。
(24) 国
縫(クンネナイ)黒い川
シャクシャインの乱、寛文の乱(寛文9年)この戦いの発端は、和人(日本人)とアイヌとのトラブルは、色々とあった。 アイヌは勘定ができない、始めで
ひとつ、終りで ひとつ、ふたつごまかす。 又、酷な労働しいたげられた。
長い間にわたって和人に苦しめられてきたアイヌは、シャクシャインを中心にいっせいに立ち上がった、殺された和人は250人をこえた。
松前藩は幕府の助けを受けて、国縫〜黒岩を境にして静内の酋長シャクシャインの軍と戦った。
アイヌ軍は毒矢、松前軍は鉄砲、差がありすぎて
ついに降伏このあと、シャクシャインを、松前城に呼んで酒を 飲ませ酔ったところを殺してしまった。 これで、シャクシャインの乱は終わったと云われている。 酋長シャクシャインの銅像は日高静内の丘に立っています。
北海道は、アイヌの歴史なしでは語れない。 何代か経つうちに純潔のアイヌ人はいなくなる。
今でも「明治政府は、北海道をアイヌからとりあげた北海道はアイヌの領地だ」と言う人もいる!考えさせられます。 おもな物々交換の品は、三品といって(昆布、鮭、ニシン)を刀、漁具、生活用具などに交換していた。
(25)
山 崎
この付近の国鉄に沿う山麓が岬に似ているので山崎と呼ぶようになる。 太平洋牧場・軽種馬、肉牛、乳牛、の牧場、最近北海道も肉牛黒毛和種を飼育している。 北海道は
アメリカンステーキ的な肉でしたが、白老牛、平取牛、十勝牛など、やわらかくて、 おいしい牛肉が食べられる様になった。
(26) 八 雲
町
尾張藩主
徳川慶勝が、幕府崩壊を目のあたりにして北海道移住を選んだ。 家臣をつれて明治11年入植、明治14年、古事記の八雲たつ…の古歌をとって八雲村とした。 明治政府になって、徳川ゆかりの殿様は北海道に入植に入る。(池田町
鳥取藩 池田公爵) (阿寒湖畔 加賀藩 前田男爵)(伊達市 仙台亘理藩 伊達邦成)名のある殿様は北海道点々と入植する。
☆
(温泉)・銀婚湯、桜野温泉、五つの温泉宿、泉質、料理で個性を競う。
☆ 遊楽部川、秋、鮭の俎上橋の上から見ることが出来る。主な産業 酪農、漁業
☆ ケンタッキイーフライドチキンの全国初の実験養鶏農場、新鶏種開発。
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(27) 山
越(ヤムウシナイ) 栗の多い沢和人はなまって山越と書いた。同じ意味の町、栗山町、栗沢町などがある。 |
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江戸時代(1801)に和人とアイヌとの 住居の境を定め(1804)亀田の関所をここに移し国境警備の様な関所で、宿泊所、 武器、米蔵、鍛冶屋や酒屋もあって賑わった所です。 国道沿いの右側、山越内神社のそばにある。
山越駅が関所に似せて造られている。 日本最北端の山越内 関所跡。
(28) 野 田
生(ヌプタイ)野にある林 又、(ノシト・アオ・ナイ)岬のある所
(29)
落 部(オテシペツ) ヤナを張る川 昔、ヤナ・網代などを使ってサケをとっていた所から呼ばれた。
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(30)に続く |
《 江 差 廻 り 》 |
(1)
銀婚湯温泉 《食塩泉》 大正14年、大正天皇の銀婚式に温泉が湧きだしたので、記念に名付けた。 お客様は銀婚式の記念に訪れる、山魚、山菜などの料理が出てくる。
(2)
厚沢部町(サツサブ)桜鳥の多い所の意味
厚沢部の開発は、亭徳3年(1454)武田信広が上の国に城を築いてからこの辺が開く。 本町、俄虫(カムイウシ)熊の多い所
(3) 江
差(エサシ)突き出た岬
北海道でも古い歴史持つ商都、動乱の歴史がよみがえる。平安時代末期(1189)頼朝が藤原を倒す、 藤原一族と部下が逃れて松前と江差に来たのが始まりで、鎌倉時代1192年頃から漁又は、 商売に来て住み着き、人口が多くなる。
このころから最初に入った人々と争いが続く、室町時代(1454)武田信広が上の国に来てから、 原住民を平定して松前藩の基礎を築く。
江戸時代(1678)奉行所を置き、ひのきの伐採や漁業を始めるようになり、 ニシン、檜材を積んだ弁財船(千石船)北前船ともいうが新潟、富山、大阪界の豪商と取引が行なわれた。 江差は蝦夷地三港(三湊)、箱舘、城下町と栄えた松前、江差はそのひとつとして商業、産業の町として繁栄。
☆ 江差の各所の神社、寺、旧家などに全盛時代の遺産が残されている。 (江差は観光するところがたくさんある追分会館にガイドマップがある。(参考)
@ 姥神(うばがみ)大神宮・室町時代(1490)創立、北海道最古の神社。 「姥神大神宮渡御祭」江戸時代(1650)ニシンの大漁を神に感謝したのが始まり北海道最古のまつり。 毎年8月9〜11日海の恵みに感謝するために、13台の山車が町を練り歩く。
その起源は350年前にさかのぼる。
☆ 瓶子岩・ 昔、江差で魚がとれなくなった、餓死するものも出てくる、信仰深い老婆が神に祈願。 かもめ島の方を見ると岩の上に〃白髪の老人〃「この瓶子(へいし)(ガラスノ銚子)汝にさずける、身を潔め海中に 注げばニシンが来る」とお告げ、その通りにすると、ニシンの大群が押し寄せ江差の浜はニシンの山。 里人は老婆にお礼に行くと姿はなく、ご神体が残されていました。
江差の人々はこれを姥神様として祀り、姥神大神宮で例年盛大な祭典が行われる。 瓶子岩のしめなわの取り替えは壮観です。 勇壮な瓶子岩のしめ縄飾りは漁師文化が育てた厳粛な行事。 7月はじめ漁民が岩によじ登って、長さ30m、重さ300キロのしめ縄の掛け替えをする。
A
法華寺・日本画の池大雅 作と伝えられる7m四方の天井画「八方にらみの竜」
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B 東本願寺別院・追分の祖師、左の市の碑がある。
C 旧中村家住宅 (昭和46年国の重要文化財に指定)母屋をはじめ文庫倉・下の倉・ハネ出しまで土間で結んだ
「通り庭様式」でひのきを主材料に、台は北前船で運んできた越後の石、は福井で生産されたもので、 時の問屋建築の代表する建築です。 明治22年頃の建物です。
D 横山家・道指定文化財、2百年以上の歴史を持つ、160年前に建てられたもの。 漁業・商業・回船問屋を営んでいた。 昭和38年北海道文化財に指定、北海道最古、唯一の京風建築。
E 300年前から明治30年代まで松前藩第一の豪商として江差で回船問屋を営んでいた関川家には、 最盛期の頃の様子古文書、調度品が保存されている。関川家別荘・江戸時代の豪商の広大な庭園。
☆ 開 陽
丸
オランダ製の軍艦・2817トン、400馬力、26門の大砲 戊辰戦争の際、元治元年11月15日、江差を攻撃するため回航、 風雨のため陸に近づけず江差湾内で座礁、沈没、岸から約200m沖合でした。 開陽丸青少年センタ−・軍艦開陽丸を復元し海底から引き上げた日本刀・大砲約3万5千点の引き揚げ物を展示している。
☆ かもめ島
上空から見ると、かもめが翼を広げたような形の島。
巌島神社や江差追分記念碑がある。 姥神の伝説が伝わったとされている かもめ島は、道南、上方(関西)を結ぶ北前船航路の拠点として重要な役割を 果たしていた。北前船係留柱跡・自然を利用した港、岩場で急に深くなっている。
徳川幕府砲台跡・追分記念碑・千畳敷海岸・(この場所がエサシを指す)
☆ 江差追分節
江戸時代
1750年頃・信州中仙道の馬子唄を源にアイヌのユ−カラの哀調、日本海の荒波の前で唄いこまれ、 独特の音調、江差追分節が生まれた。 江差追分節は江戸時代(1830)頃、盛岡の座頭左の市が広めた。
江差追分全国大会
全国から選抜された追分の歌い手約270人が集まり日本一のノドを争い合う、昭和38年の開催以来現在も秋の二日間、 会場の文化センタ−、江差の町は、熱気と感動のなかで江差追分一色に染まります。
☆江差のニシンは魚に非ず。 ニシンを漢字で書くと「鰊」これは江差では「鯡」の文字で呼んでいました。 当時の松前藩は米はとれないが豊漁のニシンによって生活が成り立っていたので、「ニシンは魚に非ず、米である」と いう発想があったためだといわれている。 松前藩の経済を支えるうえで、重要な収入源だったのです。
(4) 上 の
国
上の国は和人の住みついた当時、この地方の総称でした。 室町時代(1457)武田信広は威力を振るっていた酋長コシャマインを斬り、乱を静め、夷王山のふもとに勝山館を築く。
室町時代末期(1514)迄の約50年間は経済、文化の中心でした。 ニシンは明治末期まで千石場所としられる。 そのご繁栄は
江差に移っていきニシンもとれなくなり、民は北上するニシンを追って磯谷、忍路、高島、増毛まで 出漁する様になった。 その出稼ぎに行く夫や、恋人を慕う心をうたったのが 「忍路
高島及びでもないがせめて歌棄 磯谷ま」の歌がある。小樽祝津赤岩展望台に、この歌の追分の碑がある。
☆ 上の国花沢館跡
蠣崎季繁の館、自然の地形を利用した山城。信広と共に(1457年)コシャマイの来襲に固守した。 のちに名を残した武田信広は、花沢館の紛争実力を買われた。 道南十二館と呼ばれる、館の一つ、すり鉢・古銭などが発掘されている。
☆ 上の国勝山館跡
武田信広が、室町時代(1473)頃に築いた山城。現在は館の跡、土塁が残っている。館跡は先住民の遺跡がある。
☆ 上国寺本堂 (国指定重要文化財)
室町時代(1443)に建てられた、上の国中央に位置する夷王山の裾に建てられた。
☆ 旧笹浪家 (国指定重要文化財)150年近い歴史を誇る置き石屋根。現存する民家としては最古。
☆ 夷王山・標高159m遺跡が所々にある。
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(5) 館・
昔、アイヌの館があった事から呼ばれた。ここには ひのき が密生している林業が盛んです。
(6)
桧山支庁
鎌倉時代(1275)頃から桧山に和人が住むようになった。桧山という地名は、江差付近から桧北限地になっている。 ひのきを造材した事から古くから(ヒヤマ)と呼ばれていた。このあたりは、五葉松の北限 地になっている。 約50ヘクタ-ルの五葉松自生地帯は、天然記念物に指定されている。 又、この地の、トド松は北海道の南限地になっている。
(7)
中山隧道・昭和37年に着工、41年12月に完成、全長580m。
(8)
二股古戦場 (碧血碑)
箱館戦争の激戦地、明治2年4月13日、土方才三の卒いる幕府軍の間に16時間に、わたるはげしい攻防戦が行なわれた。 箱館戦争における激戦地とて、当時を偲ぶ陣地の跡等が所々に見られ、銃砲、刀剣等も発掘される。
(30)から続く (31) 森 町(オニウシ)樹木の多い所
鳥崎渓谷、鳥地獄、
断崖が続く屏風岩、大滝鳥崎川の渓谷。(森町)
☆ 威辰戦争、幕府海軍奉行、榎本武揚は江戸から逃れ、森町
鷲の木に上陸五稜郭にたてこもり箱館戦争を指揮、 戦いに破れ投獄されたが、政府軍 黒田清隆は、榎本は、これからの日本には必要な人物と政府に懇願。
北海道開拓使はじめ明治政府の要職についた。 榎本ひきいる軍艦開陽丸、砲弾を大量に積んだまま、江差海岸で 座礁沈没、その後 戦況不利
降伏。仮説だが!もし!幕府軍の軍艦が座礁しなければ北海道の歴史は、変ったかもしれない!幕府 榎本武揚が夢えがく「エゾ共和国」!
日本はふたつに分かれ、台湾、中国の様な関係になっていたかもしれない。? 軍艦開陽丸は復元され、当時で最新の砲弾、武器、など展示されています。 (江差マリーナで見られます)
☆ 森、オニウシ公園 桜の時期最高
森名物、イカメシ、南瓜焼酎オニウシ、など農作物、ジャガイモ、トゥモロコシ、野菜、等々、 カボチャは、栗カボチャ、エビスカボチャ、おいしいのがとれる。 海産物、昆布、毛蟹、ホタテ (養殖)、魚類。
☆ いかめし 森駅の駅弁で有名。
モチ米とウルチ米を小ぶりのイカの中に詰め込み、甘辛のタレで煮込む。
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(32) 駒 ケ 岳 標高 1133m
活火山
山の形が馬の背に似ているので駒ケ岳とついた。全山溶岩に覆われて頂上は、
砂原岳、駒ケ岳、隅田岳、三山に岐れ火口三ケ所あり最大のものは1、7qあります。
“駒ヶ岳の噴火”
★1640(寛永17年)泥流による津波で死者
700余人、室蘭方面も大きな被害があった。
★1856(安政3年)1村落焼失、死者約
20人
★1929(昭和4年)火砕流発生、死者
2人・ ★1942(昭和17年)中噴火
(33)
大沼国定公園 昭和33年国定公園に指定
(九州の那馬峡)(静岡の三保の松原)大正4年、新日本三景に指定。
☆ 大沼湖、駒ケ岳(標高1131m)の噴火で流出した泥流が山麓を塞ぎ河水を堰止めてできたもの。
周囲 24q、 水深 13.6m、 平均水深
6.4m、 水面標高 130m、(堰止湖)透明度は夏期で1m冬期で 3m 島の数
81変化にとんでいる。 大沼、小沼の島の数合わせて126の島
☆ 小 沼 湖 周囲 16q、水深
5.5m、平均水深 2.8m(陥没湖)
☆鯉、鮒、ワカサギ、ドジョウ、など生息。大沼名物、鯉のあらい、ドジョウの柳川、 じゅんさいのお吸い物美味、大沼だんご、牛乳もおいしい。
☆ 蓴菜湖(じゅんさいこ) 周囲 8q、水深
2.7m、(明治4年黒田清隆地方視察の際名付ける) 大沼3湖の一湖 大沼名物(じゅんさい)が採れるのでこの名が附いた。 6月中句〜8月中句小舟で摘み取る寒天質が多いお吸い物などにつかう。
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(34) 七 飯
アイヌ語からきている。 (ヌアンナイ)漁のある谷川、(ナムナイ)清い流れのある所。又、昔(ナナニ)という勇敢なエゾからの説。
☆七飯の産業気候が温暖なので北海道では収穫が早い。
農産物が主で豆類、野菜、品質の良い物が生産されている。 果物はイチゴ、ブドウ、ナシ、 リンゴ等風味の良い物が道南の60%を生産されている。
(35) 木地挽高原牧場 標高
683m、
事務所に通してゲート開けて頂上、大沼公園、大野平野、函館市街、函館山、一望できる。 曇ると一面真っ白
何も見えない。
(36)
国道5号線の赤松並木17qこの赤松並木は、日本の道百選に選ばれている。
(37) 右側の平野 大野平野 元禄5年の頃
野田作衛門 米作りに成功北海道稲作発祥の地。
米の銘柄(ともえまさり)収穫が少ないので、手にはいらない。 果物、野菜は南に、近いだけあって収穫が早い。
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《函館観光は別紙参照の事》
《国 道 5 号 線 径 由》
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(1) 仁 木
町 昭和39年徳島県の、仁木竹吉の性をとって付けた地名。 産物、果樹園が多い、ワインの原料になる葡萄の種類も作っている。
(2) 余 市
川 北海道では数少ないアユが俎上する川です。 5月になるとアユの大群が俎上します。 川 底の石についている藻を食べる“7月〜8月まで解禁”10月〜11月中旬頃まで流れのゆるい砂地に卵を 産み付けて一生を終える。 20日間で孵化 稚魚は海に下がる。 海で虫類を食べ5cm位まで海の中で暮らす。 アユの命は1年、国では稚魚や産卵時期は禁漁にしています。
(3)
鉱業銅製錬所跡
大きな煙突のある所、かつては、道路両側鉱業所住宅が建っていた。 銅をとり始めたのは明治21年、大きく発展したのは第2次世界大戦の頃、今では採掘する鉱石もなくなり、 現在はビル建築材
軽コンクリート(シーポレックス)の製造工場になっている。
☆ 有島記念館
有島武郎、「生れ出ずる悩み」などで有名な作家。 武郎の父・武が
明治30年(1897)から小作を入れて農場を始めた、約450ヘクタールの農場。 武郎は個人が私有することに疑問を抱き、大正11年(1922)農場を無償で解放。かつて例のない 新しい農民組織をつくったのです。今の農協みたいなものです。有島記念館には直筆の農場書類、 原稿など貴重な資料が展示されている。
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(4)
ニセコ町(ニセコアンヌプリ)そそり立つ絶壁 標高 1309m 羊蹄山 標高
1893m上から見ると羊の爪に見える所からきている。 羊蹄山麓には、農作物が、ここのジヤガイモは北海道では、おいしさは一番、アスパラガス、トウモロコシ、甘いニンジン など、作っている。羊蹄山麓には、おいしい湧き水がいたる所に湧き出ている、一日8万dも湧き出る所もある。
(5)
昆布温泉(コンボヌプリ)昆保山からきている
昔、大津波が山まで押し寄せた、昆布が木に引っ掛っていたの説もある。 山奥深く温泉が湧き出ている。
昭和25年、ニセコ道立公園に指定。
(6) 蘭 越
町(ランコウシ)カツラの木の多い所
カツラの木でアイヌは丸木船を作った。 現在はこの木が少なくなって高級材になっている。 本州では菩提樹と呼ばれている、直径1mにもなる大木になる。
(38) 黒 松
内(クルマツナイ)和人の女のいる所
出稼ぎの夫を追ってきた女が、行き倒れになってこの地にとどまったの説。
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《 雷 電 廻 り 》 |
(1)
刀掛けの岬
弁慶が義経に従って雷電峠にさしかかった時、ここでひと休みその時、 弁慶が岩をひねって刀掛けをつくって休んだと云われている?
☆ 雷電の伝説
義経は雷電の山の中で、アイヌの酋長チパの
襲撃を受け捕われの身となった。 酋長チパの娘メヌカ、義経に恋をする。 一族の情けを受け一冬すごすことになる、よく春この地を去る事になる。 泣いてすがるメヌカに義経は「来年はきっと帰って来る、来年まで」と、再会の言葉「来年」が「雷電」に転訛した?
☆ 雷電温泉
岩内町が
昭和37年12月、温泉の湧出に成功、温度、58度・泉質、石膏泉無色透明・関節、筋肉リウマチ、神経痛に効く。
(2)
古番屋・明治35年頃の建物です。この辺は岩内でも一番のニシン場所でした。
(3) 岩 内
町(イワナイ)硫黄の流れる沢
岩内は
ニシンの千石場所としてその名は知られていました。今では冬期スケソウダラ・春、鱒・ イカ・ホッケなど、魚の加工場などがある。 昭和29年9月26日台風15号の時、アパ−トから出火風にあおられ3.300戸が全焼、全町8割が焼ける。
その後立派な町に生まれ変わり、この地方の経済文化交通の中心になる。 岩内港は北海道西海岸の商港として発展しています。
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《 函 舘 〜 松 前 》 |
(1) 七 重
浜
洞爺丸遭難慰霊碑・昭和29年9月26日・15号台風の犠牲にった1,429名の御魂が眠っている。海水浴場として有名です。
(2) 上
磯(カムイソ)美しい岩
室町時代(1400年ころ)沿岸に漁師の集落ができる。 寛政11年(1799)この地方が幕府の領地となり、開拓が始められた。 松前街道松前城を中心に東に箱舘まで95km、西は乙部まで83km
寛永10年(1633)松前藩は巡見使の巡行区域を箱舘〜乙部までとし、当時は道が悪いので、 この間の道を整備、巡見使の巡行を可能にした、この道が松前街道の始まり。
(3) 茂 辺
地・ 昭和30年上磯町と合併するまでは茂別村といっていた、合併して茂辺地と改められた。
(4)
トラピスト修道院 男子修道院
明治29年、ランス帰化人・岡田晋理衛氏によって創設され、現在約75名の修道志が神の奉仕生活を自給自足で 送っています。歌隊修士は白衣を着て祈りを主とする。 助修士は茶褐色の衣服を着て働く事を主とし、歌隊修士と 助修士にわかれている。 ここで生産されるトラピストバタ−は有名。 見学は、資料館・ルルドの泉、内部は男性のみ予約がいる。
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(5)
木古内町
嘉吉3年(1443)頃 松前が繁栄する様になって、松前、江差、箱館の分岐点になっているため宿場が設けられ、 和人が住む様になる。 鉄道も松前線と江差線に分かれている。
☆ 寒中みそぎ天保2年(1831)から続く、神社守に
「ご神体をきよめよ」と夢枕にお告げがありご神体を抱いて 海へ行き沐浴(もくよく)その年から豊漁、豊作が続いたと云われた。 以来毎年1月13日の水ごりで祭りは始まり15日から、別当、稲荷、山ノ神、弁才天のご神体を行修者の若者が抱き、 厳寒の津軽海峡の海に飛び込み、水を掛け合い、しぶきに今年の豊漁、豊作を祈る。
(6) 千 軒
岳(1072m)
千軒岳の由来・元久2年(1205)築前の国(福島)の船が遭難、知内村涌元に漂着。 水夫達は、のどが渇き小さな滝を見つけ滝壷のなかの金塊を持ち帰り将軍頼家に贈られる。 頼家は金山を伊原の領主、荒木大学に命じる。大学は水夫、千余人の人夫をつれ(福 島)千軒岳金鉱発見する。 麓には千軒の家が建つ様になる、これが千軒岳の由来。
(7)
知内温泉(泉質・鉄鉱泉、炭酸塩類・70度・胃腸、皮膚、婦人病などに効く)千軒岳の麓に
750年の歴史をもつ温泉、鎌倉時代初期(1246)に荒木大学が和泉の国(大阪)の作右衛門に湯守をさせたのが、知内温泉の始まり。
☆ おっぱいまつり
知内公園の(姥)うば杉、樹齢七百年余の根元に乳房に似た(こぶ)があり古来より乳不足の女性が洗米を献じて授乳祈願、その米を(かゆ)にして食べると乳が出るようになった事から「乳神」と呼ばれていた。 「おっぱいまつり」はこれから由来する。毎年八月、(おっぱいみこし)(おっぱいねぶた)が町を練り歩く。珍しいお祭り!
(8)
海底トンネル
福島吉岡〜青森三廐間、昭和63年に完成・53、85k世界で一番長いトンネル1964年から24年かけて完成。 道立青函トンネル記念館・津軽海峡の自然、歴史、トンネル工事の資料を展示。
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(9) 福 島
町
昔、鹿追い村・オリカナイ村(川水が逆流するの意味)と呼ばれていた。 明応元年(1492)悪病、不漁、不作、 火災が続き村を去る人が多くなる。 寛永元年(1624)1月16日、村人は月崎神社に御篭もり、オリカナイ村という 村名が良くないと福島と改名せよとお告げがあり、第7代藩主広公に申し出て改名する。
☆ 珍しい「南北海道おんなだけの相撲大会」5月中旬。
☆ 第41代横綱・千代の山、第58代千代の富士が出ている。記念館もある
(10) 松 前
初めは大舘と言っていた。 安土桃山時代(1590)武田慶広が豊臣秀吉の命により始代の松前藩主に任命。 その時地名を「松前」(アイヌ語マックオマナイからきている)と改められた。 古い歴史の都、文化、産業、経済の中心地として繁栄し450年の歴史が続く都として発展。
古くから多くの人や物、文化が行き交い「北の小京都」とよばれた。 幕末から明治、政治の中心も函館、札幌に移り松前は長い歴史を閉じる。
☆ 松 前 城 (福山城
復元)(国指定史蹟)
松前家第17世・宗広、幕府から北辺警備の命を受ける。 安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成する。
城内に砲台を備え、簡素に見える天守閣も、頑丈で西洋式が取り入れられている。 現在の天 守閣は、昭和36年に再建されたものです。 本丸表御殿玄関は旧城門として当時の面影を残しています。 本丸御門は昭和25年、重要文化財に指定。(天守閣内部は松前城資料館)
☆ 寺院は、松前文化の遺構が多くある。 民衆を支えた信仰、京都、北陸の文化近江商人の活躍幕末の内乱、 歴史の流れがひそんでいる。 城跡付近の社寺 法憧寺・松前家の菩提樹室町時代に
描かれた16羅漢図がある。 龍雲寺・江戸時代(1625)の寺院・堂・をのこしている。 (国指定重要文化財) 光善寺、法源寺、阿吽寺、専念時、華寺、正行寺、松前神社、徳山大神社
☆ 松前藩主松前家墓所(国指定史蹟)
石造りの家屋に納められている墓石は全国的に珍しい。藩祖・信広から19代まで続いた松前藩。 歴代藩主のお墓が、松前城北側、寺院の一部分に収められている。
キリシタンのお墓もあって、刻印された磯部型灯篭がある、興味深いものがある。
☆ さくらの里・
藩主が参勤交代の時、京都方面から桜の木を持ち帰り植えたのが始まりと云われている。松前公園、寺町一帯は、 約1万本、早咲き遅咲き4月下旬から1ヶ月間に色々の花が淡紅色、紅色、黄色、白と約250種類咲き競う全国で 有数なさくらの名所です。 光善寺の血脈桜(けちみゃくさくら)樹齢280年、この咲く花は実に見事です。 (さくら資料館)などがある。毎年5月1日から20日まで桜祭りが開かれている。
☆ 猛宗竹林
北海道では春が一番早い松前。 気候が温暖で北海道では見られない植物がある。 安政年間、松前藩が関西から移植したもので約1000本の竹藪。
☆松前藩屋敷
藩政時代に城下町として栄えた町並みを再現テ−マパ−クがある。
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